週末は古墳巡り

古墳とは、およそ3世紀から7世紀に築かれた墳丘状の墓のこと。その数、およそ20万基

坪井正五郎博士 日本初の人類学者

東京近郊で古墳巡りをすると坪井正五郎博士の足跡に出会う。坪井正五郎博士は日本初の人類学者で、日本における考古学、人類学の普及と確立に尽力。経歴を紹介すると、1863年両国生れ、1884年日本人類学会の前身の「じんるいがくのとも」を結成、1886年帝国大学理科大学動物学科卒、1888年帝国大学大学院人類学専攻修了後、帝国大学理科大学助手、翌年に文部省から英仏二国に人類学の官費留学を命じられ3年間日本を離れる、帰国後、帝国大学理科大学人類学教室初代教授、同年結婚、1899年理学博士、1913年第5回学士院連合総会に出席のため滞在していたロシアのサンクトペテルブルクで客死(享年50歳)。著書『はにわ考』(1901)、『人類学講義』(1905)、『人類学叢話』(1907)など多数。

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じんるいがくのとも創設メンバー(前列左から二人目が坪井正五郎博士) 日本人類学会

「じんるいがくのとも」が平仮名なのは「かなのくわい」(会長は有栖川宮威仁親王)の影響による。

1884年3月2日、当時、東京大学予備門の学生だった有坂鉊蔵(しょうぞう)が根津の谷に面した貝塚から赤焼きの壺を発見した。翌日、東京大学の学生だった坪井正五郎白井光太郎を現場に連れて行き、壺は坪井にあずけられた。後年になって、これが縄文土器とは異なるものと認められ、発見地の地名から「弥生土器」と名づけられた。

坪井が最初に吉見村、黒岩村を訪れたのは1885年。シーボルト1878年にモースは1879年に吉見村、黒岩村を訪れている。坪井と同行した白井光太郎は「この百穴を居住跡といふ人あれども、予は一見にしてその墓穴なるを確信せり」と記す。1987年8月に横穴の発掘を実施。発掘した横穴は黒岩村で8基、吉見村で59基。これまでに見つかっていたものと合わせると黒岩村は28基、吉見村は83基。帝国大学の資金を得て1888年初頭まで継続された調査で発掘された横穴の総数は237基。坪井は横穴を「居住の為に穿った」「是等を作った人民は多分土蜘蛛」と「横穴探検記」(1887年)に記す。

足利公園古墳群(1886年坪井正五郎らが1号墳から3号墳を調査)

1892年12月に西ヶ原貝塚を発掘調査。

1897年12月から翌年4月に東京市の委託で芝丸山古墳を発掘調査。

1904年10月に堀之内貝塚で行われた東京人類学会創立満20周年記念遠足に参加。

1906年11月に園生貝塚で行われた東京人類学会第二回遠足に参加。

1907年10月に加曽利貝塚で行われた東京人類学会第三回遠足に参加。

1907年、お穴さま詣でとして賑わったひょうたん山のお穴さまを調査して、土地の豪族の墳墓の跡だと鑑定。発掘品の重要なものは国立博物館に収蔵した。

 

コロボックル説については改めて記事を書きたい。

遮光器土偶命名者でもあるそうです。

文献

[1] 坪井正五郎 1887「埼玉県横見郡岩村及び北吉見村横穴探検記」『東京人類学会雑誌』東京人類学会 第19,20号

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