週末は古墳巡り

古墳とは、およそ3世紀から7世紀に築かれた墳丘状の墓のこと。その数、およそ20万基。

築地市場跡遺跡 発掘調査現場見学会(7/12) 中央区築地

7月12日に開催された築地市場跡遺跡の発掘調査現場見学に参加した。築地市場跡は、築地地区まちづくり事業(一期を2030年代前半までにまちびらき予定)に先立ち、都有地活用に向けた準備工事として昨年7月より埋蔵文化財調査中で、日本における産業史の転換点とも言える海軍の煉瓦建物遺構が検出された。今回の調査区は、1868(慶応4)年に築地ホテル館が開業(1871年焼失)、1872(明治5)年に海軍省創設、1875年に海軍省構内に兵器局製造所設置、1889年に海軍造兵廠に改称、1923(大正12)年の関東大震災まで約50年間、兵器素材の開発・製造工場として近代の日本海軍を支えた。A1区35号遺跡では明治期のクルップ式製鋼炉とシーメンス式製鋼炉、大正期の光学ガラス溶解炉、A2区4号遺構では1917(大正6)年に設置された光学ガラス溶解炉の地下部分の遺構が遺存していた。海軍では、軍艦からの砲撃に不可欠な望遠鏡や測距儀に使用する光学ガラス(レンズ)をイギリスやドイツから輸入していたが、ヨーロッパでの第一次世界大戦の勃発(1914年)で輸入が不安定となり、自国での生産を余儀なくされ、明治期の製鋼炉を改築・増築する形で光学ガラス溶解炉を設置。1918年に、この地で光学ガラス(クラウンガラス、フリントガラス)の製造に成功。関東大震災(1923年)により壊滅的な打撃を受け、光学ガラスの製造は、小石川の日本光学工業株式会社(現在の株式会社ニコン)に引き継がれた。日本橋魚河岸をはじめとする市場群が震災により全壊したことを受け、隅田川や汐留駅といった水運と陸運に恵まれたこの地に臨時の東京市場魚市場を開設、帝都復興計画の一環で東京市の中央卸売市場として整備され、1935(昭和10)年に築地市場として正式に開業。2018年10月、豊洲市場が業務開始、築地市場は廃止された。今回の見学会では、出土遺物として、刻印のある煉瓦・耐火煉瓦などを展示。

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勝鬨橋
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軍艦操練所跡
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軍艦操練所跡 (ぐんかんそうれんじょあと)

所在地 中央区築地6丁目20番地域

ペリーによる黒船艦隊の来航後、西洋式海軍の必要性に迫られた江戸幕府は、安政四年(1857)四月、旗本や御家人、諸藩の藩士等から希望者を集めて、航海術・海上砲術の講習や、オランダから輸入した軍艦の運転を練習させる目的で軍艦教授所(後の軍艦操練所)をこの地にあった築地講武所内に創設しました。

万延元年(1860)正月に講武所が神田小川町(現在の千代田区)に移転をした後には、跡地一帯は軍艦操練所の専用地とされました。元治元年(1864)三月には焼失して、南隣りの広島藩主浅野家下屋敷のあった場所(絵図では松平安芸守蔵屋敷)へ仮移転をしています。

設立当初は旗本永井尚志が総督をつとめ、長崎の海軍伝習所修業生を教授方としていました。その後、向井将監や勝海舟等が頭取をつとめました。

慶応元年(1865)七月、新たに海軍奉行を置き、慶応二年七月には海軍所と改称されました。同年十一月には再び類焼して現在の旧浜離宮庭園の地に移り、跡地には、日本最初の洋式ホテルである築地ホテル館が建てられました。

平成21年3月 中央区教育委員会

波除稲荷神社
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波除(なみよけ)稲荷神社

所在地 中央区築地6丁目20番37号

波除稲荷神社の創建は万治年間(1658〜1661)と伝えられています。築地一帯の埋立てが進められた万治年間、波浪により工事が難航を極めた際、海中に漂う稲荷明神の像を祀ったところ波浪が治まり、埋立て工事が無事完了したと言われています。「波除」という尊称はこの故事に由来するもので、江戸時代以来、航海安全や災難除け・厄除けなどの神として人々に篤く信仰されてきました。

波除稲荷神社の祭りは、江戸時代から獅子祭りとして知られ、祭りの際には数多くの獅子頭が町をねり歩きました。獅子頭の多くは震災・戦災などで失われましたが、現存する嘉永元年(1848)製作の獅子頭一対(中央区民文化財)は社宝として本殿に安置されています。なお、現在でも毎年六月の 「つきじ獅子祭」では、「厄除け天井大獅子」や「弁才天お歯黒獅子」が巡行されることがあり、獅子祭りの伝統を伝えています。

また、本殿前にある天水鉢二基(中央区民文化財)は、尾張藩船からの積荷の陸揚げに従事した小揚たちが天保九年(1838)に奉納したものです。

江戸時代、現在の築地市場の南半分には尾張徳川家の蔵屋敷があり、米穀や尾張の特産品などが運び込まれていました。船の無事を祈って奉納したこの天水鉢は、波除稲荷神社への信仰を伝える貴重な文 化財です。

平成22年3月 中央区教育委員会

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吉野家

ここ築地の地に、
牛丼の吉野家の創業店がありました。
吉野家の歴史は、かつて栄えていた日本橋の魚河岸で
明治32年に開業したのが始まりです。
屋号は、創業者・松田栄吉の出身地である
大阪・吉野町より名づけられたと伝えられています。
その後、関東大震災の影響により、
大正15年、魚河岸とともにこの地に移転いたしました。
東京大空襲によって店舗は焼失しましたが、
終戦後、すぐに屋台で営業を再開、
そして昭和34年、「築地一号店」を開店したのです。
当初、具材には季節の旬な食材と豆腐なども
盛り込まれていましたが、
市場で働く人達が牛丼を注文するのは、
牛肉が食べたいからなのです。
二代目社長、松田瑞穂は、
そんな想いに応えてメニューを改良。
より多くの牛肉と、味わいを深めるための玉ねぎだけを使った、
シンプルな牛丼を生み出しました。
この牛丼は市場で大いに愛され、
またたく間に各地へとひろがり、
日本人のお腹を満たす国民食となっていったのです。
平成28年、再び市場の移転にともない、
「築地一号店」も移転することになりました。
この地で永きにわたり多くの方々に、
ご愛顧いただいてまいりました
「はやい、うまい、やすい」
吉野家の牛丼は、
まさにこの土地で育まれた味なのです。

築地本願寺
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レンガは品川白煉瓦(SHINAGAWA:深川伊勢勝→品川)、中央煉瓦製造所(CHUORENGA:岐阜大垣)、帝国窯業(BIZEN-INBE:岡山伊部)、宇野煉瓦製造所?(UNO 二重丸内にN LTD.:岡山三石?)、加藤耐火煉瓦製造所→三石耐火煉瓦製造所(MITSUISHI:岡山三石)など。KEYSTONE 、HAMMONDは輸入品。他に海軍兵器局製造の刻印もあり

 

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