週末は古墳巡り

古墳とは、およそ3世紀から7世紀に築かれた墳丘状の墓のこと。その数、およそ20万基。

武蔵国造 物部連兄麿 八幡山古墳の被葬者?

先日のブログ記事「古墳の被葬者」で紹介した説明板の中で唯一、埼玉県行田市八幡山古墳の説明板が被葬者の候補として具体名を挙げていた。そこで、八幡山古墳の被葬者の候補とされる物部連兄麿(兄麻呂、もののべのむらじえまろ)について調べた。物部連兄麻呂は『聖徳太子伝暦』(917年に成立)で、聖徳太子の舎人として活躍して、太子の没後、癸巳年(633年)に武蔵国造に任じられ、後に小仁の位を賜ったと記される。八幡山古墳の被葬者とされる根拠は、1977年の発掘調査で、絹布に繰り返し漆を塗り重ねて作られた棺(乾漆棺、夾紵棺)の破片(漆塗木棺片)が出土ことによる。乾漆棺(かんしつかん)は、出土例が極めて少なく、終末期の貴人の葬送に用いられた。また、東日本最古の寺院、寺谷廃寺は6世紀末から7世紀初めに埼玉県比企郡滑川町に建立され仏教文化が導入された。その導入に関わったのが物部連兄麻呂とされ、八幡山古墳からは1935年の調査で石室の奥室から仏教に関連する銅鋺が出土している。八幡山古墳の築造は7世紀前半とされ物部連兄麿を被葬者としても矛盾しない。

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武蔵国造に関して日本書紀安閑天皇元年の条(534年?)にある武蔵国造の乱については、また後日、記事を書きたい。

聖徳太子の舎人・物部連兄麿の墓「八幡山古墳」 - にゃんと?!また旅

八幡山古墳 - 日本の開運

豪族の動き

物部連兄麻呂は坂戸市の勝呂廃寺の導入に関わったとの説もある。

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