南下古墳群石室公開デーの続き。B号墳→A号墳→E号墳と築造順にまわった。
南下A号墳


















朱線





群馬県指定史跡 令和5年9月8日指定
南下A号古墳
本古墳の所在する丘陵にはかつて40基を越える古墳があり、町内でも有数の古墳群を形成していた。しかし、時代の波とともにその数は減少し、今は僅か9基を残すのみになっている。これらは南下古墳群として県内外に知られ、本古墳とB号古墳の2基は以前、町史跡に指定されていた。9基の内5基の古墳は開口し、石室の構造や石材の利用法等の違いを見るのに適している。
本古墳は、陣場岩屑流と呼ばれる流山の南斜面中腹に構築された古墳である。墳丘は二段構築で、非常に丈が高い円墳と推定されている。墳丘の規模は径約30m、高さは南面で約8mである。葺石及び埴輪の有無は明らかでないが、埴輪についてはその破片すら発見されておらず存在しない可能性が高い。周溝等外部施設については発掘調査を経ておらず、不明と言わざるをえない。
石室は真南に開口する横穴式両袖式石室で、截石切組積の手法を駆使した極めて精巧で美しいものである。石材には主に角閃石安山岩を用い角は全て直角に加工し、随所に切組の手法を取り入れている。羨道と玄室の境に据えられた玄門及び冠石の加工技術の優秀さはその水準の高さを物語っている。玄室の壁面は最終的に漆喰で塗込められていたらしく所々にその痕跡を残している。石室の規模は主体部が全長約8m以上、羨道長約4m以上、玄室長約3.25m、奥壁幅約2.40m、同高さ約2.40mの規模である。
近年玄室及び羨道の壁面に石材加工、壁体構成の際の作業線と推定される朱線が発見され注目されている。朱線については本古墳の北約60mに所在するにE号古墳にも発見されている。
本古墳は古い開口のため年代の手がかりとなる出土遺物の所在は明らかでないが、石室の構造及び企画、また石材の加工法等から七世紀後半の古墳と推定されている。
文献