週末は古墳巡り

古墳とは、およそ3世紀から7世紀に築かれた墳丘状の墓のこと。その数、およそ20万基。

橘樹歴史公園 川崎市高津区千年

今年5月18日にオープンした橘樹歴史公園をオープン後に初めて訪れた。

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史跡 橘樹官衙遺跡群(千年伊勢山台遺跡[橘樹郡家跡])

橘樹評(たちばなひょう)の倉庫跡(SB0031)

この倉庫跡は、橘樹郡正倉院(ぐうけしょうそういん)地区Ⅱ期(7世紀後葉〜8世紀初頭)の橘樹評の倉庫跡と推定されています。南北3間、東西3間の高床の掘立柱建物(総柱建物)で、令和元年(2019)に実施した確認調査において、この建物が東西約5.94m(20尺)、南北約5.94m(20尺)の規模であり、隣接する3棟の倉庫と同規模であることが判明しました。この建物は、北側に隣接する倉庫跡(SB0030)と異なり、建物を支える16本の柱を立てるため、1本の柱につき、1辺1.0〜1.4m、深さ1.0〜1.2mの概ね方形をした掘方(ほりかた)が掘られました。ただし、建物解体時の柱の抜き方は北側に隣接するSB0030と同じく非常に特徴的で、調査で確認した柱を抜いた痕跡(柱抜取穴)からは、建物西半部と東半部ごとに、1ヶ所を除いて、それぞれ東西に隣り合う2本の柱を1回の掘削でまとめて抜いたことが推定されています。

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史跡 橘樹官衙遺跡群(千年伊勢山台遺跡[橘樹郡家跡])
橘樹評の倉庫跡(SB0085)

この倉庫跡は、橘樹郡正倉院地区Ⅱ期(7世紀後葉〜8世紀初頭)の橘樹評の倉庫跡と推定されています。南北3間、東西3間の高床の掘立柱建物(総柱建物)で、平成12年(2000)・平成14年(2002)・平成28年(2016)・令和4年(2022)に実施した確認調査において、当時立っていた柱の位置(柱アタリ)を数ヶ所確認し、建物の規模は東西約5.94m(20尺)、南北約5.94m(20尺)で、隣接する3棟の倉庫と同規模であることが判明しました。また、建物解体時の柱の抜き方は隣接する SB0030やSB0031と同じく非常に特徴的で、それぞれ隣り合う2本の柱を1回の掘削でまとめて抜いた痕跡(柱抜取穴)が3ヶ所確認されており、これらの建物が概ね同時期に撤去されたことを示している可能性があります。ただしSB0030 ・SB0031と異なり、なぜ3ヶ所のみこうした抜き取り方法を採用したのかは不明ですが、この時期の建物解体方法を知る上で、貴重な事例といえます。

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史跡 橘樹官衙遺跡群(千年伊勢山台遺跡[橘樹郡家跡])

橘樹評の倉庫跡(SB0032)

この倉庫跡は、橘樹郡正倉院地区Ⅱ期(7世紀後葉〜8世紀初頭)の橘樹評の倉庫跡と推定されています。南北3間、東西3間の高床の掘立柱建物(総柱建物)で、令和3年(2021) に実施した確認調査において、建物の規模が東西約5.94m(20尺)、南北約5.94m(20尺)であり、隣接する3棟の倉庫と同規模であることが判明しました。また、この倉庫跡の柱は、1辺1.0〜1.5m、 深さ1.0〜1.2mの概ね方形をした掘方のほぼ中央に据えた後、掘方を黒色土や黄褐色土(おうかっしょくど)で少しずつ埋めながら突き固 めて立てられたことを確認しましたが、これら柱を据えた16基の掘方には、すべて柱を抜き取った時にできる痕跡(柱抜取穴)が確認できたことから、建物を解体する際、 すべての柱を抜き取ったと考えられます。このことから、抜き取った柱は、他の建物で 再利用した可能性が推測されます。

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史跡 橘樹官衙遺跡群(千年伊勢山台遺跡[橘樹郡家跡])

橘樹評の倉庫跡(SB0030)

この倉庫跡は、橘樹郡正倉院地区Ⅱ期(7世紀後葉〜8世紀初頭)の橘樹評の倉庫跡と推定されています。南北3間、東西3間の高床の掘立柱建物(総柱建物)で、令和2年(2020)に実施した確認調査において、この建物が東西約5.94m(20尺)、南北約5.94m(20尺)の規模であり、隣接する3棟の倉庫と同規模であることが判明しました。この建物は、建物外側の柱を立てる方法が非常におもしろく、まず正方形に溝を掘り、その溝の底面を柱の位置に合わせてさらに方形に掘り下げ、そこに柱を据えています。また、建物解体時の柱の抜き方も興味深く、調査で確認した柱を抜いた痕跡(柱抜取穴)からは、建物西半部・東半部ごとに、それぞれ東西に隣り合う2本の柱を1回の掘削でまとめて抜いたことが推定されています。この特徴的な抜き取り方法は、隣接する倉庫跡(SB0031・SB0085)でも確認されており、これらの建物が概ね同時期に撤去されたことを示している可能性があります。

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史跡 橘樹官衙遺跡群(千年伊勢山台遺跡[橘樹郡家跡])

橘樹官衙遺跡群は、多摩川から約2.6km西方に広がる標高40〜42mの多摩丘陵上に立地しています。遺跡群北東側や東側の多摩川右岸に広がる低地部とは高低差が約30mもあり、多摩川対岸の遠くまで見渡すことができる、眺望にすぐれた場所です。遺跡群は、古代武蔵国に置かれた21の郡の1つである橘樹郡の役所跡[橘樹郡家跡]が発見されている千年伊勢山台遺跡と7世紀後葉創建と考えられる古代寺院跡が確認されている影向寺遺跡で構成されています。これまでの発掘調査等から、7〜10世紀における地方官衙の成立から廃絶までを知ることができる全国的にも貴重な遺跡であると評価され、川崎市初の国史跡に指定されています。

千年伊勢山台遺跡[橘樹郡家跡]のうち最も調査が進んでいる場所が、税として集めた稲等を収納した倉庫が建ち並ぶ正倉院が設置された伊勢山台地区で、この地区で確認された遺構は5時期の変遷があったことが明らかになっています。

Ⅰ期 飛鳥時代(7世紀第3四半期頃)は、方形の溝をもつ遺構(方形周溝状遺構)が多く造られた時期です。方形周溝状遺構がどういう性格のものなのかはまだ分かっていませんが、その後に整備される橘樹評や橘樹郡における施設のさきがけとなる遺構であると考えられています。

Ⅱ期 飛鳥時代(7世紀後葉〜8世紀初頭)は、橘樹郡に先立ち設置された[推定]橘樹評家(ひょうけ)の倉庫などが造営された時期です。この時期の建物は、建物の主軸方位が西に約30度傾くともに、柱筋を揃えて並ぶなど、非常に計画的に配置されたことが明らかになっています。

Ⅲ期 奈良時代(8世紀前葉〜後葉)は、橘樹郡が成立し、その役所である橘樹郡家に正倉院が整備された時期です。周囲に溝を巡らせた内側に総柱の高床倉庫である正倉、平屋の倉庫 である屋(おく)、飢饉などに備えて設置された法倉(ほうそう)等が計画的に建てられました。この時期の建物は、建物の主軸方位がほぼ正方位(北)になりました。

IV期 平安時代(9世紀前葉〜中葉)は、まだ不明な点も多いですが、建物の小型化と減少が進み、橘樹郡正倉院が衰退していった時期と推定されています。

V期 平安時代(9世紀後葉〜10世紀初頭)は、遺構等が見られず、橘樹郡正倉院が廃絶した時期と考えられます。

今回整備を実施した場所では、II期の[推定]橘樹評家の倉庫跡を4棟確認していることから、1棟を復元整備し、3棟を柱の一部を示す一部立体表示としました。復元した倉庫等を見ることで、都から遠く離れた川崎の地で律令的地方行政組織が整備されていった当時の雰囲気を体感し、古代の川崎に思いを馳せてもらえればと思います。

令和5年(2023年)5月 川崎市教育委員会

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史跡橘樹官衙遺跡群(千年伊勢山台遺跡[橘樹郡家跡])

〜[推定]橘樹評家の倉庫が復元されるまで

発掘調査で発見した7世紀後半の倉庫を、盛土をして遺構を保護しながら、みつかった場所に復元しました。 ところが、この時期に建てられた倉庫建築は現存していないため、どのような建物だったのか詳細がわかりません。そこで、発掘調査の成果等から、どのように考えてこの倉庫を復元したのか、その概要を紹介します。

①発掘調査から分かること

②柱の長さ

③壁の構造

④屋根の形

⑤屋根材

⑥壁の高さ

⑦壁板の幅や厚さ

⑧建物に使う木材の種類

令和5年(2023年)5月 川崎市教育委員会

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史跡 橘樹官衙遺跡群(千年伊勢山台遺跡[橘樹郡家跡])

橘樹官衙(たちばなかんが)遺跡群は、多摩川から約2.6km西方に広がる標高40〜42mの多摩丘陵上に所在しています。多摩川右岸に広がる低地部との高低差は約30mあり、眺望にすぐれた場所に立地しています。

橘樹官衙遺跡群は、古代武蔵国(むさしのくに)に置かれた21郡の1つ、橘樹郡の役所跡である橘樹郡家跡と古代寺院跡が発見されている影向寺(ようごうじ)遺跡から構成されています。郡家と古代寺院が隣接して営まれたことが判明し、7〜10世紀における地方官衙の成立から廃絶までを知ることができる、 全国的にも貴重な遺跡であることが評価され、平成27年(2015)3月10日に川崎市初の国史跡に指定されました。

8世紀(奈良時代)には、全国に約600ヶ所の郡家が設置されました。 郡家には、郡の政務全般を行う郡庁(院)、税として集めた稲等を保管する正倉(院)、郡を訪れた国司等が宿泊する館(たち)、饗宴[宴会] や郡家で勤務する役人への食事等を提供する厨家(くりや)という主要施設等が設置されたことが文献等から分かっています。千年伊勢山台(ちとせいせやまだい)遺跡[橘樹郡家跡]では、これまでに40棟を超える掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)のほか、竪穴(たてあな)建物や溝状遺構(みぞじょういこう)等が確認されており、建物の配置等から、正倉(院)の場所は明らかにでき、館、厨家の場所も概ね推定できています。郡庁(院)はまだ発見されていませんが、地形を利用した主要施設の配置状況等から、正倉(院)と館・厨家の間の範囲に所在する可能性が高いと考えられます。

橘樹郡家の西側には、古代寺院が存在していました。この寺院は出土した瓦の年代等から7世紀後半(飛鳥時代)の創建と推定され、発掘調査から、創建時に総瓦葺きの金堂が造営された後、8世紀前半にかけて伽藍の整備が行われたと考えられています。しかし近年の調査で、8世紀前半に造営されたと考えられていた塔跡の掘込地業(地盤改良)から9世紀半ば頃の軒丸瓦が出土したこと等から、塔の造営時期について、再検討が必要になっています。

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橘樹官衙遺跡群保存活用事業用地
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橘樹官衙遺跡群保存活用事業用地[橘樹郡家郡庁推定地]
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史跡 橘樹官衙遺跡群(千年伊勢山台遺跡[橘樹郡家跡])

橘樹官衙遺跡群保存活用事業用地[橘樹郡家郡庁推定地]

この事業用地は、令和2(2020)年度に川崎市教育員会が実施した確認調査(千年伊勢山台遺跡[橘樹郡家跡]第31次調査)において、地 下に古代橘樹郡の役所跡である橘樹郡家跡の遺構が確認されました。そこで、この貴重な遺跡を将来にわたり保存していくため、国史跡に追加指定するとともに、令和3(2021)年度に川崎市が土地を取得しました。これまでの調査成果などから、この事業用地及びその周辺に、古代橘樹郡の郡司が政務や儀式を行った橘樹郡家郡庁(ぐんちょう)が置かれていたのではないかと推定されています。

この事業用地を含む史跡橘樹官衙遺跡群については、川崎市が策定した『国史跡橘樹官衙遺跡群整備基本計画』などに基づき、計画的に史跡の整備・活用を図っていく予定です。

令和4(2022)年3月1日 川崎市教育委員会

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橘樹官衙遺跡群と周辺の遺跡

史跡 橘樹官衙遺跡群

橘樹官衙遺跡群は、多摩川から約2.6km西方に広がる標高40〜42mの多摩丘陵上に所在しています。多摩川右岸に広がる低地部との比高は約30mあり、眺望にすぐれた場所に立地しています。また、古代でも主要な道路であった現中原街道や矢上川等の河川に面する水陸交通の結節点に位置していました。橘樹官衙遺跡群は、古代武蔵国に置かれた21の1つ、橘樹郡の役所跡である橘樹郡家跡(千年伊勢山台跡)と古代寺院跡が発見されている影向寺跡から構成されています。郡家と隣接する古代寺院が確認され、7〜10紀における地方官衙の成立から廃絶までを知ることができる、全国的にも貴重な遺跡であることが評価され、平成27(2015)年3月10日に川崎市初の国史跡に指定されました。

また、奈良時代の郡が成立する以前の7世紀後半(飛鳥時代)には、各地に評 (こおり・ひょう)という行政組織が置かれました。橘樹郡家跡や影向寺遺跡からは、橘樹評の建物等も確認されています。8世紀(奈良時代)には、建物をほぼ東西南北に合わせているのに対して、7世紀後半(飛鳥時代)の建物は西に30〜40度いて建てられているのが大きな特徴です。このように建物の方位に違いがある理由は明らかではありませんが、日本列島に古代律令体制が整備されていく歴史の変換点を現す現象の一つと思われます。

 

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