週末は古墳巡り

古墳とは、およそ3世紀から7世紀に築かれた墳丘状の墓のこと。その数、およそ20万基。

影向寺の文化財 現地特別公開 川崎市宮前区野川本町

川崎市教育委員会主催の令和6年度指定文化財等現地特別公開事業として特別公開された影向寺文化財を見学した。本特別公開事業は、日頃、保存や保護のため公開されていない川崎市の指定文化財を所有者のご理解とご協力をいただき特別に公開するイベント。今年は橘樹歴史公園のオープンを記念して、影向寺文化財を特別公開した。

f:id:kofunmeguri:20241122091111j:image
f:id:kofunmeguri:20241122090154j:image
f:id:kofunmeguri:20241122090201j:image
f:id:kofunmeguri:20241122090158j:image
f:id:kofunmeguri:20241122090205j:image
f:id:kofunmeguri:20241122090535j:image

影向寺(ようごうじ)

当寺は、天台宗に属しています。縁起によれば、天平11年(739)光明皇后がご病気のおり、聖武天皇は夢告(ゆめのおつげ)で武蔵国橘樹郡橘郷、すなわちこの地に霊石(れいせき)のあることを知り、早速、当時の高僧行基を使わし祈願させたところ霊験あらたかで、皇后のご病気も快ゆされたという。そして聖武天皇の勅命により、この地に伽藍がそびえたのは、その翌年のことであると伝えています。事実、境内から採集された古瓦の中には、奈良時代のものが含まれ

ており当寺の創建が縁起に近いことがわかります。

境内の安置堂内には、当寺が古刹であることをうらづける数多くの文化財が所蔵されています。

重要文化財に指定されている本尊の木造薬師如来坐像(欅材)と両脇侍立像(桜材)の三躯は、一木造で、平安時代後期の作品です。 風格のあるおだやかな表情とあふれる量感が特徴的です。この本尊には、木造二天立像二躯(平安時代後期)と木造十二神将立像十二躯(室町時代)が眷属として侍立しています。また、木造聖徳太子立像一躯(室町時代)もあり、いずれも川崎市重要歴史記念物に指定されています。

薬師堂は、江戸時代初期の万治年間(1658〜1660)に火災で失い、その後まもなく復興したと伝えられているもので、現在の薬師堂がそれにあたるものとおもわれます。建立の時期は建築様式上の特徴から、寛文頃(1661〜1672)のものとされております。

境内の東南隅にある影向石は、縁起でいう霊石にあたるものでしょうが、その実際上の用途は塔の心礎であろうといわれています。また、江戸時代の民衆が本尊によせてきた信仰を物語る絵馬や昔話の舞台となった乳を乞う母親が祈願したイチョウの大木 など、当寺にかかわる歴史的な話題は数多く伝えられています。

川崎市教育委員会 重要文化財保存会

f:id:kofunmeguri:20241122090538j:image

影向寺文化財

当寺は、天台宗に属しています。縁起によれば、天平11年(739)光明皇后の御病気平癒のため、聖武天皇の勅命により創建されたと伝えられる古刹です。

本尊の木造薬師如来坐像及び両脇侍立像の三軀は、欅材の一木造、彫眼で平安時代後 期に製作されたものです(明治33年4月7日、重要文化財指定)。本尊には、木造二天立像二軀(平安時代後期)と木造十二神将立像十二軀(南北朝時代)が脊属として侍立しています。また、聖徳太子堂には木造聖徳太子立像(室町時代)が納められています(以上、昭和43年2月10日、川崎市重要歷史記念物指定)

現在の薬師堂は、中世以来の伝統的な密教本堂の様式を伝えていますが、銅製棟札により元禄7年(1694)に再建されたことがわかりました(厨子・銅製棟札・手水石 ・石燈籠とともに、昭和52年8月19日、神奈川県重 要文化財指定)。

昭和59年10月 川崎市教育委員会

影向石
f:id:kofunmeguri:20241122090408j:image
f:id:kofunmeguri:20241122090405j:image

影向石

当寺のいわれとなった霊石。奈良朝に本寺創建のとき、ここには美しい塔が建てら

れ、その心礎として使用されました。心礎

には仏舎利が収められ、寺院の信仰の中心 となります。「影向(ようごう)」とは神仏の憑りますところのことで、寺域は太古より神聖な霊地。神仏のましますところとして、信仰されていたものでしょう。幾星霜をへ、塔が失われた以降、この影向石のくぼみには常に霊水がにたえられて乾くことなく、近隣から眼を患う人々が訪れて、その功験によっていやされました。江戸のはじめ万治年間に薬師堂が火を蒙ると、本尊薬師如来は自ら堂を出でて、この石の上に難をのがれたといわれ、それ以来、栄興あるいは養光の寺名を影向とあっためだと伝えられます。

昭和51年5月吉日 重要文化財保存会

力石
f:id:kofunmeguri:20241122090357j:image
f:id:kofunmeguri:20241122090400j:image

力石

にぎやかな祭礼の日、村の老若男女は影向寺へ集まります。若衆たちは相撲を奉納したり大きな石をもちあけて力を競いあいました。祭りは昔の人々にとって信仰の場であるとともに、日々の疲れをいやす場であり、若い男女の語らいの場でもあったのです。この力石には品川 綱島 太尾とあり、 となりのものには下作延村の名もみえます。はるか遠方からも当寺へ参指人が集まっていたことが知られるでしょう。

昭和51年5月吉日 重要文化財保存会

f:id:kofunmeguri:20241122092144j:image

太子堂裏の眺望
f:id:kofunmeguri:20241122100910j:image

 

にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ
にほんブログ村