深谷市の欠下台古墳の南東約700m、市境を跨いだ熊谷市の湯殿神社を参拝して、西別府祭祀遺跡を見学した。
湯殿神社
幡羅官衙遺跡群(はらかんがいせきぐん)
所在地 熊谷市西別府字西方、天神、瀧下
幡羅官衙遺跡群は、古代幡羅郡家(ぐうけ)に係わる遺跡群で、深谷市幡羅遺跡から続く幡羅郡家の一部である西別府遺跡・古代寺院跡の西別府廃寺・湧泉祭祀跡の西別府祭祀遺跡の3遺跡からなる飛鳥時代〜平安時代(7世紀後半〜11世紀前半)の遺跡群です。郡家・寺院・祭祀の3要素が有機的に機能していたことが確認された郡家は、岐阜県勒寺(みろくじ)官衙遺跡群 (美濃国武義郡家)に次いで全国で2番目です。
現在、これら遺跡群の範囲はそのほとんどが農地として利用されており、湯殿神社境内地を含めて当時の景観を今に非常に良く残していることから、郡家の実態に迫ることができる情報が豊富に含まれる貴重かつ重要な遺跡群です。
西別府遺跡(にしべっぷいせき)
熊谷市・深谷市境に南北に広がり、深谷市幡羅遺跡から続く遺跡で、9世紀前半から10世紀後半までの幡羅郡家の一施設(大小の掘立柱建物跡を擁する方形区画施設)が発見され、土師器・須恵器・須恵系土師質土器、ロクロ土師器、当時の高級食器である緑釉(りょくゆう)陶器や灰釉(かいゆう)陶器などの土器のほか、隣接する西別府廃寺に使われた軒丸瓦・軒平瓦などが確認されています。
この西別府跡には、幡羅郡家の政庁が存在する可能性が高いと推測されています。
西別府廃寺(にしべっぷはいじ)
特別養護老人ホーム永寿苑を中心とする位置にあり、8世紀初頭から9世紀後半まで存在していたことが分かっている古代寺院で、幡羅郡家の郡寺の機能をもつ寺院であったと考えられています。
寺城は、東西150m、南北200m程の規模で、四方には幅5m程の区画溝が廻っていたと推定されます。寺の伽藍(がらん)配置については部分的な発掘調査のため不明ですが、版築工法により造られた基壇建物跡1棟などが確認されているほか、寺院の屋根に葺かれた瓦が多量に廃棄された瓦溜り状遺構が確認されています。
西別府祭祀遺跡(にしべっぷさいしいせき) 国史跡 平成30年2月13日指定
湯殿神社が所在する台地の縁辺部周辺に位置し、7世紀後半から11世紀前半に至るまで連綿と行われた水辺の祭祀(湧泉祭祀)の遺跡で、湯殿神社裏の湧水地点を中心にして、7世紀後半の石製模造品と7世紀末以降の土師器・須恵器などが多数出土しています。
水の恵みを願う7世紀後半の石製模造品を主に用いた祭祀が、7世紀末から8世紀初頭にかけて郡家が成立したことにより郡家に所属する公の祭祀へと変遷し、9世紀後半には願文や吉祥文字を墨書した土器などを用いた祭祀へと変化していったことが推測されています。
西別府祭祀遺跡
「幡羅官衙遺跡群(幡羅官衙遺跡・西別府祭祀遺跡)」の国指定について:熊谷市ホームページ
埼玉県指定文化財の西別府祭祀遺跡出土品(石造模造品など)は昨年1月に熊谷市立江南文化財センターを訪れたのは際に見学した。
埼玉県立歴史と民俗の博物館の特別展「埼玉考古50選」では「No.34官衙関連遺跡」として西別府祭祀遺跡出土の石製模造品・土錘が展示された。
文献
[1] 埼玉県熊谷市教育委員会 2013 『埼玉県熊谷市埋蔵文化財調査報告書15:西別府祭祀遺跡、西別府廃寺、西別府遺跡 総括報告書Ⅰ』埼玉県熊谷市教育委員会
幡羅官衙遺跡群の国史跡指定記念シンポジウム「飛鳥時代の役所と地域社会」11月10日 pic.twitter.com/QzeTq2NgKb
— ぶじん(挂甲の武人) (@kufunmeguri9) 2018年10月28日