週末は古墳巡り

古墳とは、およそ3世紀から7世紀に築かれた墳丘状の墓のこと。その数、およそ20万基。

回天神社と回天館 水戸市松本町

回天神社は、1969年に明治百周年記念事業の一環として、松下幸之助らの提唱により、社殿が建立され、翌年宗教法人の認可を受けた。安政の大獄桜田門外の変以降国のために殉した志士の御霊を祀る。『回天』は藤田東湖の『回天詩史』に由来する。

f:id:kofunmeguri:20220515194304j:image
f:id:kofunmeguri:20220515194258j:image
f:id:kofunmeguri:20220515194252j:image

回天館は、天狗党の志士が降伏後に押し込められた鰊倉(にしんぐら)の1棟で、敦賀市より譲り受け、天狗党の資料などを展示する。
f:id:kofunmeguri:20220515194255j:image
f:id:kofunmeguri:20220515194311j:image
f:id:kofunmeguri:20220515194301j:image
f:id:kofunmeguri:20220515194308j:image

回天館の由来

この建物は徳川幕府時代の末、世に云う「天狗党ノ変」における越前国敦賀の悲劇をつたえ明治維新の「礎」として後の世に残すため移築保存されたもので、当時、この建物は北前船の寄港地、敦賀港にあった十六棟のうちの一棟であり鰊倉(にしんぐら)、鯡倉(ひぐら)ともいわれた倉庫である。

f:id:kofunmeguri:20220515194314j:image
f:id:kofunmeguri:20220515200056j:image
f:id:kofunmeguri:20220515200046j:image
f:id:kofunmeguri:20220515200053j:image
f:id:kofunmeguri:20220515200050j:image
f:id:kofunmeguri:20220515194504j:image
f:id:kofunmeguri:20220515194507j:image

市指定史跡 水戸殉難志士之墓 昭和二十九年七月十日指定

元治元年(1864) 筑波山尊皇攘夷の挙兵があって水戸藩内の動揺が甚だしくなった。そこで鎮撫のため藩主慶篤の目代として松平大炊頭頼徳が水戸へ下った。その護衛のため榊原新左衛門照煦等はそれに随い武田伊賀守正生等も加わった。

その反対派の市川三左衛門弘美等は、水戸城を占據していてその入城を拒み戦端が開かれた。

頼徳等は弘美等の抵抗を排して那珂湊に據った。

筑波勢も頼徳等の応援のため戦列に加わった。

ここで弘美等は幕軍を引き入れて那珂湊を包囲し攻防の激戦が続けられた。

照煦等は幕軍と戦うのは本意ではないので自首し諸藩に預けられ異郷にあって多くは最後をとげた。

これらの者を主とし明治3年(1870)に勤皇殉難志士としてこの地を新たに墓地と定め銘々の墓碑が建てられた。その数374基である。

なおこの墓地の中間の霊地に昭和8年(1933)安政大獄以後水戸藩の勤皇殉難志士忠魂塔が建てられ1785名の霊を鎮め同44年(1969)塔の前にこれらの霊を祀る回天神社が創建された。


回天神社 « 水戸市の観光情報サイト「水戸旅」【公式】水戸観光コンベンション協会

回天館 « 水戸市の観光情報サイト「水戸旅」【公式】水戸観光コンベンション協会

郷土いいとこ再発見

神社博物館事典WEB版 - 回天神社・回天館

にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ
にほんブログ村