明治2年、新政府の初代水戸藩知事となった徳川昭武公は、明治維新の礎として殉難した志士の遺骸を収容して、常磐共有墓地の一角に埋葬し、同所に「殉難」碑を建立、慰霊顕彰した。大正3年、殉難志士の氏名を刻して建てたのが「水戸殉難志士の墓」である。
市指定史跡 水戸殉難志士之墓 昭和二十九年七月十日指定
元治元年(1864) 筑波山に尊皇攘夷の挙兵があって水戸藩内の動揺が甚だしくなった。そこで鎮撫のため藩主慶篤の目代として松平大炊頭頼徳が水戸へ下った。その護衛のため榊原新左衛門照煦等はそれに随い武田伊賀守正生等も加わった。
その反対派の市川三左衛門弘美等は、水戸城を占據していてその入城を拒み戦端が開かれた。
頼徳等は弘美等の抵抗を排して那珂湊に據った。
筑波勢も頼徳等の応援のため戦列に加わった。
ここで弘美等は幕軍を引き入れて那珂湊を包囲し攻防の激戦が続けられた。
照煦等は幕軍と戦うのは本意ではないので自首し諸藩に預けられ異郷にあって多くは最後をとげた。
これらの者を主とし明治3年(1870)に勤皇殉難志士としてこの地を新たに墓地と定め銘々の墓碑が建てられた。その数374基である。
なおこの墓地の中間の霊地に昭和8年(1933)安政大獄以後水戸藩の勤皇殉難志士忠魂塔が建てられ1785名の霊を鎮め同44年(1969)塔の前にこれらの霊を祀る回天神社が創建された。