石岡市立ふるさと歴史館で企画展を鑑賞する前に青屋神社を参拝。
青屋神社
所在地 石岡市総社1丁目4番
常陸国司は、都から着任すると鹿島社に参拝するのがならわしであった。国司が鹿島社に参拝するには、高浜から船で行くのが 順路であったが、荒天で出航不能のときは、高浜のなぎさにススキ、マコモ、ヨンなどで青屋(仮屋)をつくり、そこから鹿島社を遥拝し参拝にかえたという。これが青屋祭の起こりといわれている。
中世の青屋祭は、府中総社の宮祭の一つとして高浜神社、大洗磯前神社、鹿島社などの津で、霞ヶ浦と鹿島灘の航海の安全と水産物の豊穣を神に祈願するため行われた。
近世の青屋祭神事は、青屋の馬場と呼ばれるこのあたりで行われた。深夜、2人の者が青ススキ、細竹で青屋をつくる。神拝は、公家装束の税所氏と健児所(小仁所)氏が侍姿の大勢の供をつれて参拝する。この間、馬場では神馬を走らせた。神拝が終わると税 所氏と健児所氏は高浜に移り、高浜神社に参拝した。
◇大掾氏との関わり
鹿島社の神事と関係の深い青屋祭といわれる祭礼の執行は、大掾氏の重要な任務の一つだった。祭祀は税所氏が引き継ぎ明治期まで及んだ。ちなみに税所氏は第8代大掾資幹(すけもと)の末弟望幹の子忠成がその養子となり跡を継いでいる。
◇エピソード〜奪われた水戸城
応永33年(1426)6月22日、第16代平満幹(みつもと)は、青屋祭を執行するため、一族を挙げて府中に赴いたが、これを好機とばか
りに江戸通房(みちふさ)が同23日に、大掾氏の拠点である水戸城を奪取するという事件が起きた。これは上杉氏憲(禅秀)の乱で満幹が禅秀に味方し、鎌倉公方足利持氏に弓を引いたことに対する処分の結果であるという説もある。満幹はその子慶松とともに、鎌倉雪の下で足利持氏によって暗殺されてしまった。
常陸のみやこ 一千有餘年之地
常陸のみやこ 一千有餘年之地
この石岡小学校敷地一帯は、今から約1300年前に常陸国の国街が置かれた場所と推定されています。この国衙を中心として、現在の石岡市域全体を領域とする常陸国府としての古代都市が建設され、常陸国の政治・経済・文化の中核的な役割を果たしました。
しかし、この繁栄を極めた古代都市は10世紀半ばに起った平将門の乱によって破壊され、やがて、この地には南北朝時代から戦国時代にかけて、大掾氏によって府中城が築城されました。大掾氏滅亡後、幾人かの領主が交替しましたが、何れもこの府中城の地に支配の拠点を構えました。そして、18世紀の初頭、水戸徳川家の御連枝・府中松平氏の領地となってこの地に府中陣屋が建設され、明治維新に至る約160年間、その支配が続きました。
近代になると、この一帯には教育施設が相次いで建設されました。まず明治6年に石岡小学校が開校、明治43年に新治郡立農学校(現在の石岡一高のち大字石岡に移転)大正元年に石岡実科女学校(現在の石岡二高、のち府中五丁目に移転)、そして昭和22年には石岡中学校(のち東石岡4丁目に移転)が開校しました。
このように、この地は石岡の枢要として古代から近代に至る歴史を重層的に担ってきたのです。ちなみにこの石碑の位置は、中世府中城の土塁であり、昭和戦前期に石岡小学校の奉安殿が建てられていた場所です。
平成8年8月
府中城の土塁
市指定史跡 府中城の土塁
所在地 石岡市総社1丁目2番
指定年月日 昭和53年8月23日
府中城は、正平年間(1346〜1370)大掾詮国により築城されたといわれる。天正18年(1590)12月大掾清幹が佐竹義宣に攻められて落城した。
落城後は、義宣の叔父佐竹義が城主となり、慶長7年(1602)佐竹氏の秋田国替後は、六郷政乗がこれを領した。その後元禄13年 (1700)松平頼隆が封じられ、この地に陣屋を置いた。
城の規模は東西約500m、南北約400m、本丸・二の丸・三の丸のほか、箱の内出丸・磯部出丸・宮部出丸を備え、また、堀・土塁をめぐらした堅固な城郭であった。現在では、土塁や堀の一部が残されており、当時をしのぶことができる。
昭和60年3月
国指定史跡 常陸国府跡
所在地 石岡市総社1丁目2番
常陸国衙の成立は、8世紀初頭前後である。国府の下に郡衙が置かれ、多珂(たが)・久慈(くじ)・那賀(なか)・新治(にいはり)・白壁(しらかべ)・筑波(つくば)・河内(かわち)・信太(しんた)・茨城(いばらき)・行方(なめかた)・鹿島(かしま)の11郡を統括していた。国街には、国内の政務に携わる行政官の勤務す る役所や倉庫群などさまざまな建物があった。昭和48年、石岡小学校の校舎改築に伴い発掘調査が実施され、多くの大型の柱穴が発見された。その後、平成10年から平成11年にかけてのプール建設に伴う発掘調査では、掘立柱建物跡、溝跡などが発見された。この調査は引き続き平成13年度から6次にわたり行いその結果、この石岡小学校の校庭に国庁が存在していたことが判明した。 国庁は南向きに建てられており、東西に平行して脇殿がある。正殿の南に前殿を配し、四方を築地塀で囲んでいる。また一時期、東西に楼閣が建てられた時代もあったものと思 われる。全国の例と同様に、それらの建物配置は左右対称である。さらに時代が下ると掘立建物から礎石建物に変わっていく。
◇大掾氏との関わり
大掾氏は代々「常陸大掾」という役職を世襲し、それがやがて家名となったものであるが、大掾という役職は在庁官人のトップであり、時代の変遷はあるものの実質的に国衙機能を掌握していた。
◇エピソード〜大掾氏と府中城
府中城は、戦乱の続く南北朝時代初期の正平年間(1346-1369)に第15代平詮国(あきくに)によって築城されたといわれている。規模は東西約5町(約500m)南北約4町(約400m)という広大なものであった。成り立ちについては、石岡城(外城:市内田島地区)から本拠を府中城に移したという説があるが、府中城と石周城は、二城一体の城塞として「内城」と「外城」という関係で機能していたのではないかとも考えられている。
石岡の陣屋門の裏の市民会館は解体工事中
旧市民会館解体工事に関するお知らせ【随時更新】 | 石岡市公式ホームページ
石岡の陣屋門の斜向かいの煉瓦塀があった駐車場は、石岡明照保育園の駐車場として整備されていて煉瓦塀はなくなっていた。
風間阿弥陀
風間阿弥陀(かざまあみだ)
市指定有形文化財 昭和56・6・27指定
所在地 総社1-2-10
高さ約一三〇センチメートル、五輪塔が壊れたような形をしている粘土製の像です。 元来は、小栗城(現在の筑西市小栗)の守り本尊でした。
応永30年(1423)、小栗城落城の折、小栗十勇家臣の風間次郎正興、八郎正国親子が三河に落ち延びる途中(現在のかすみがうら市下志筑)、幼い四代目三郎正三とともにこの 阿弥陀を残していかれました。それが風間家で代々守り続けている阿弥陀です。
風間家古文書によりますと、本尊は地下に埋め、地上に粘土で固めた像を置いたと言い伝えられています。
像は、風間氏の転居とともに場所を変え、現在に至っています。