週末は古墳巡り

古墳とは、およそ3世紀から7世紀に築かれた墳丘状の墓のこと。その数、およそ20万基。

日野市の煉瓦巡り

東京都立埋蔵文化財調査センターでの講演会の後に日野市の煉瓦巡り。日野市立日野第一中学校の角の空間。

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足元に敷かれた煉瓦は大阪窯業の八王子工場(1932年に火災により操業停止)でつくられた煉瓦で、1932年に甲州街道の歩道の舗装として敷かれたもの。「大阪窯業」の刻印。大阪窯業の八王子工場の始まりは、1904年に開通する甲武鉄道の八王子〜上野原間の工事に煉瓦を供給するため1897年に設立された八王子煉瓦。1907年に関東煉瓦に買収され、1912年に合併により大阪窯業の八王子工場となった。地元では「長沼の煉瓦工場」と呼ばれた。甲武鉄道1906年鉄道国有法によりに国有化された。

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「HBW」の刻印の煉瓦は日野煉瓦(1888年設立、1891年廃業)の会計主任の河野家に保管されていたもの。Hino Brick Works(日野煉瓦工場)の略か? 日野煉瓦の構造物からはこの刻印はまだ見つかっていない。試作品もしくは見本かもしれない。日野煉瓦の構造物からは「イ」「ロ」「ハ」などの一文字の刻印が確認されている。

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こちらは別の場所の大阪窯業の煉瓦。「OSAKA YOGYO」の刻印。
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1956年(昭和31年)、八坂神社前の歩道の様子。子供たちの足元に見えるのが大阪窯業の煉瓦。
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八坂神社
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日野用水(下堰)鉄橋。日野煉瓦が使用されている。
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日野用水(上堰)鉄橋。日野煉瓦が使用されている。
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甲武鉄道の開通と日野煉瓦でできたトンネル

 JR中央線が、かつて甲武鉄道と呼ばれていたことをご存じですか。JR中央線の前身である甲武鉄道は、明治22年(1889)4月に新宿駅立川駅間が開業しました。しかし八王子駅に至るまでには、多摩川・浅川の鉄橋建設という大事業を控えていました。そこで地元日野宿の有力者たちは日野煉瓦工場を設立し、鉄道建設に使うための煉瓦の製造を始めました。

 日野煉瓦工場では、明治23年8月に廃業するまでの間、約50万個の日野煉瓦が生産され、その大半は多摩川鉄橋の橋梁や立川駅八王子駅間の陸橋やトンネル建設のために使われました。また明治23年1月には日野駅が開設されました。

 日野煉瓦の製造と鉄道建設への取り組みを通じて、近代化を目指した日野人の「先進性」と「行動力」には驚嘆させられます。

日野市教育委員会

講演会のレジメの「日野煉瓦関連マップ」に記載の「飯綱権現社」の煉瓦は残念なことになっていたようだ。

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土方歳三没後150周年記念デザインマンホール蓋
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記念デザインマンホール・マンホールカード|日野市公式ホームページ

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