週末は古墳巡り

古墳とは、およそ3世紀から7世紀に築かれた墳丘状の墓のこと。その数、およそ20万基。

友山・武香ミュージアム 熊谷市冑山

埼玉県文化財収蔵施設で北大竹遺跡の展示を見学後に、熊谷市文化財有形文化財・建造物)に指定されている根岸家長屋門長屋門の一部を整備して根岸家の歴史についての紹介展示する友山・武香ミュージアムを見学した。根岸家長屋門は、冑山村の名主であった根岸家が、江戸時代に建造した建物で、武術道場や考古遺物の陳列館として使用されていた。

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武香の功績

根岸武香は、天保十年(1839)に友山の二男として生まれる。幼名新吉。剣を千葉周作、学問を寺門静軒安藤野雁に学ぶ。明治元年(1868)地方大惣代に任ぜられて以降、地方行政に係わり初期学制の確立に尽力した。同十二年(1879)の埼玉県議会開設とともに県議会議員に選出され副議長となり、翌年第二代議長となる。同二七年(1894)には貴族院多額納税者議員となる。一方、考古家として同二〇年(1887)東京帝国大学の大学院生坪井正五郎吉見百穴の発掘を行い、日本の考古学に多大な貢献を果たした。また、考古遺物や古銭、古美術品、古文書等の収集に努め、一般に公開した。更に同十七年(1884) 江戸幕府が編纂した「新編武蔵風土記稿」を内務省地理局から全80冊の刊行を実現した。明治三五年 (1902) 十二月没す。享年六四歳。

根岸武香が「坪井正五郎吉見百穴の発掘」のくだりは、文献[2][3]に詳述されている。文献[1]に武香収蔵の人物埴輪が紹介されている。

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根岸家長屋門:熊谷市ホームページ
根岸友山・武香(ねぎしゆうざん・たけか):熊谷市ホームページ
熊谷乙女旅-根岸家長屋門 | 熊谷観光局
根岸友山 | 熊谷デジタルミュージアム
根岸武香 | 熊谷デジタルミュージアム

明治の好古家 根岸武香コレクション資料-2【改訂版 2019.04.15】 ―『上中条出土の武人埴輪と巫女埴輪』―

特別展 根岸友山・武香の軌跡 2002年2月 大里村教育委員会

根岸武香さんは武四郎さんや坪井正五郎さんと交流があったそうです。(文献[2][3])

文献

[1] 八木 奘三郎 1895「各地發見ノ埴輪類(第百九號續)」『東京人類學會雜誌』10 巻 112 号 p. 388-393_1

[2] 塩野博 2004「埼玉の古墳 比企・秩父」さきたま出版会

[3] 川村伸秀 2013『坪井正五郎 -日本で最初の人類学者』 

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