週末は古墳巡り

古墳とは、およそ3世紀から7世紀に築かれた墳丘状の墓のこと。その数、およそ20万基。

日向廃寺跡 つくば市北条

日向廃寺跡は城山(別名は多気山、標高129.4m)の麓、標高32.0mのつくば市北条字日向に立地。昭和54年に町営住宅の共同汚水槽建設で巴文軒瓦と円形柱座を有する花崗岩製の基礎が見つかり、同年と翌年の2度にわたり、筑波町と筑波大学歴史・人類学系が発掘調査を実施。およそ2mの堆積層下に建築面が見つかった。その堆積層は城山の一部が崩れ遺跡を覆ったと考えられ、遺構は良く保存されていた。遺構は3間×4間の方形の列柱を有し、高さ約30cmの基壇を持つ中央堂と、高さ約15cmの基壇を持つ東西の単廊部と複廊部からなる。およそ前後3回の改築が認められる。瓦が葺かれ、加工された礎石を有することから寺院跡と考えられ、軒瓦の型式から平安時代末期から鎌倉時代初頭と推定。宇治平等院鳳凰堂のような臨池式伽藍(阿弥陀堂)が想定される。文献[3]の「北条日向遺跡、番号205、寺院跡、市指定史跡(日向廃寺跡)、昭和54,55年発掘調査(一部湮滅)」

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つくば市北条(当時は多気)は、平将門の乱の平定で武名を挙げた平国繁盛(国香の次男)の子・維幹(国香の嫡子・貞盛の養子)の本拠地で、維幹は常陸大掾に任ぜられ、多気権大夫と称し常陸平氏の祖となる。日向廃寺の創建は常陸平氏と想定されている。維幹から4代目の平致幹は盛んに法華経等を書写し、経塚造営に努めた。旧新治村東城寺境内より、保安3年銘、元治元年銘の致幹寄進の経筒が出土している。当時は末法思想が流行。現世に極楽浄土を求め阿弥陀堂が建設された。致幹の孫・義幹(多気太郎)は小田の八田氏と争い、1193年源頼朝に滅ぼされ維幹より6代続いた常陸大掾氏は滅亡した(近年では常陸平氏常陸大掾の地位を継承してきたとする考えに否定的)。

[常陸平氏] 平維幹(多気権大夫) → 為幹 → 重幹(繁幹) → 致幹  → 直幹 → 義幹(多気太郎)

[常陸吉田氏] 吉田清幹(繁幹の次男) → (三代略) → 馬場資幹

なお、平清盛を輩出した伊勢平氏は、国香の嫡子の貞盛の四男の平維衡が興した。

近くの採石場
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北条 歴史めぐり絵巻 つくば道寄り道マップ
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<日向廃寺>

城山南麓の無量院の「本堂再建記念碑」に無量院の縁起として、多気太郎平義幹公による建立、義幹公の憤死、霊魂安慰について伝えている。

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無量院本堂再建記念碑

そもそも無量院の濫觴(らんしょう)をたずぬるに、当山は建久元(1190)年十一月多気(たけ)山城主常陸大掾(だいじょう)多気太郎平義幹公、鎌倉右大将上洛に際し随兵として京師を観して後、祖宗報恩のため一寺を道場山に建立し、西山の道場梅松山無量寿光明寺と号し、寺領一千貫を寄せ、以って報恩の誠を致せるものなり。然るに、建久四年義幹公かって庶民のために図り給いし水利土木のことをもって、隣接の小田城主八田知家のために讒(よこ)せられて、身を岡部権守泰綱に預けられ、その領常陸六郡の地を馬場資幹に改付せらる。このとき再三身の公明を申し述べられしが、遂に入れられずして駿河の地に憤死せらる。遺臣等、公の遺徳を偲び奉りて、霊骸を迎えて、当山に葬り、もって霊魂を安慰し奉る。

越えて正中年中(1324〜25)、当宗四代呑海大和尚、当国御修行のみぎり、慈光の前に現れ来り、得度し給うと。ここにおいて、旧恩の領民等相集いて公が英霊を慰めんがため、無量院殿等阿弥陀佛の法号を追贈し奉り、天台宗時宗となし、千日の念仏をなすと。

次いで嘉暦年中(1326〜28)、当山を現今の地に遷し、なお義幹公生前崇敬し奉るところの天満大自在天神・稲荷尊・大弁財天・熊野権現を勧請して、以って当山の鎮守となし、かつ塔頭甘露院のほか末寺一寺を建立しその恩に報ゆと。然れば山門の勢観、四方の清景とともに栄えて、自ずより衆生摂取念仏弘通の霊場となれり。

埼玉古墳軍/古墳軍ニュースに城山の多気城跡の発掘調査の現地説明会(2009/9/21)のレポートがある。

文献

[1] 筑波大学 1981「筑波古代地域史の研究

[2] 茨城県考古学協会 2010「茨城の考古学散歩」東冷書房

[3] つくば市教育委員会 2020「つくばの遺跡

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