週末は古墳巡り

古墳とは、およそ3世紀から7世紀に築かれた墳丘状の墓のこと。その数、およそ20万基。

恋ヶ窪東遺跡 国分寺市東恋ヶ窪

中央線国分寺駅周辺の遺跡を散策。

恋ヶ窪東遺跡

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国分寺市の遺跡 国分寺市遺跡No.57

恋ヶ窪東遺跡

所在地:本町四丁目の一部、東恋ヶ窪一丁目、二丁目の一部
時期:旧石器・縄文
種別:集落跡

本遺跡は、野川の源流の一つであるさんや谷に面した台地上に位置する旧石器・縄文時代を中心とする遺跡です。

古くはおよそ3万年前の地層から旧石器が出土し、別の新しい地層からは尖頭器の製作跡、あるいは終末期の細石刃などが確認されています。特に遺跡の南端の調査では1万点以上の石器が出土し、旧石器時代の人々の痕跡が色濃く見られます。

縄文時代の調査では200軒近い住居跡が発見されています。さらに、中期を中心として草創期から晩期にいたる縄文土器が出土しており、縄文時代全時期(1万2000年前〜2400年前)を通して、本遺跡が生活の適地であったことを物語っています。

野川流域の国分寺崖線やそれに入り込む谷筋には、湧水地点が点在しています。この豊富な湧水と日当たりの良い台地上を求めて、狩猟と採集を生業とした旧石器・縄文時代の人々が集まり、生活を営んでいたのです。

「柄鏡形敷石住居跡」復元模型

ここに復元展示されている「柄鏡形敷石住居跡」は、都営国分寺本町四丁目アパート建設に伴う事前調査によって発見された5軒の内、最も保存状態が良好であった第19号住居跡を再生復元したものです。大きさは南北約5.6m、円形の部分で直径約3.8mあり、深さは約50cmです。

「柄鏡形敷石住居跡」は、今から約4000年前、縄文時代中期末葉から後期初頭の頃のもので、関東地方から中部地方にかけでの広い範囲で発見されています。この住居の特徴は、床面に平らな河原石を敷き、入口となる長い張出し部を持っていることで、その丸い鏡面に長方形の柄を付けた「柄鏡」に似た形をしていることから、この名が付けられました。

平成30年3月作成 国分寺市教育委員会

恋ヶ窪遺跡
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国分寺市の遺跡 国分寺市遺跡No. 2

恋ヶ窪遺跡

所在地:西恋ヶ窪一丁目の一部、東恋ヶ窪一丁目付近、東恋ヶ窪三丁目の一部
時期:旧石器・縄文・中世
種別:集落跡

武蔵野段丘の南端にあたる国分寺崖線やそれに入り込む谷筋には、湧水地点が点在し、その湧水が集まり野川を形成しています。本遺跡は、この野川の源流域にあたるさんや谷と恋ヶ窪谷に挟まれた台地上に立地する縄文時代中期を中心とした遺跡です。狩猟と採集を主な生業とした縄文時代の人々は、豊富な湧水と豊かな植生林が広がる南向きで日当たりの良い台地を求め、この野川流域に集まり、生活を営んでいました。

これまでに、160軒を超える住居跡やおとし穴、土壙墓などが発見されています。また、縄文土器のほか、食糧確保(狩猟、植物採集・加工、漁労)の道具や工具・装身具などの石器類、あるいは宗教的意味を持たせて作られた土偶などが出土しています。このような多種多様な出土遺物から縄文 時代の生活様相を知ることのできる貴重な遺跡です。

平成30年3月作成 国分寺市教育委員会

本町(国分寺村石器時代)遺跡
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国分寺市の遺跡 国分寺市遺跡No.28

本町(国分寺村石器時代)遺跡

所在地:本町二丁目・南町二丁目の一部
時期 :旧石器・縄文・奈良・平安
種別 :集落跡

武蔵野段丘の南端にあたる比高差約5〜16mの国分寺崖線やそれに入り込む谷筋には、湧水地点が点在し、その湧水が集まって野川を形成しています。狩猟と採集を主な生業とした縄文時代の人々は、豊富な湧水と豊かな植生林が広がる日当たりの良い台地上を求めて、野川流域に集まり生活を営みました。本遺跡もその一つで、東の本多谷、西の殿ヶ谷戸谷に挟まれ、南東に張り出した台地の先端に位置する縄文時代の集落遺跡です。約4500年前の縄文時代中期を中心とした住居跡が20軒以上確認されています。

本遺跡の発見は日本考古学の黎明期にあたり、市内における縄文時代遺跡研究のさきがけとなりました。明治22年(1889)に甲武鉄道(現JR中央線)が開通した後、明治26年に井上喜久治と帝国大学(現東京大学)の鳥居龍蔵によって遺跡の存在が確認されます。翌年、鳥居は同大学の大野延太郎(雲外)と調査を行い、国分寺駅東側で府中新道路開通工事のためあらわになった切通し断面から、縄文土器や石器を発見しました。

「遺物包含層」・「遺物散列地」命名の地

大野らは調査結果を「武蔵国北多摩郡国分寺村石器時代遺跡」(『東京人類学会雑誌」102・106・107・111号、1894〜95年)として大野のスケッチを入れて発表しました。本遺跡における遺物の出土状況に着目し、遺物が当時の地盤上から動かずにある場所を「遺物包含層」、後世の開墾等により地上に遺物が散布している場所を「遺物散列地」と区別して定義づけました。

「遺物包含層」は、今日でも考古学の学術用語として広く定着し、本遺跡は日本の考古学史にとって重要な遺跡と 言えます。

平成30年3月作成 国分寺市教育委員会

日立製作所中央研究所
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小平新田散歩
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歴史と文化の散歩道 小平新田散歩

小平新田散歩は、国分寺駅から新小平駅までの約5.1Kmのみちのりです。広漠たる原野の武蔵野を潤した玉川上水。そして上水からの分水は、青梅、五日市の街道沿いに新田開発の波をもたらした。武蔵野の風景とともに新田開発の歴史をめぐります。

恋ヶ窪(こいがくぼ)

JR西国分寺駅北東付近は、中世に旧鎌倉街道沿いの宿場であったと言われているが、その様子は明らかでない。

恋ヶ窪には、鎌倉御家人の中心人物として波瀾の生涯を送った秩父の武将畠山重忠とこの宿場町の遊女夙妻太夫(あさづまだゆう)の悲恋にまつわる一葉松(傾城の松)の伝承がある。京都聖護院門跡の道興准后(みちおきじゅこう)がこの地に立寄った際に、この悲恋を「廻国雑記」の中で次の様な和歌に残したといわれている。

「朽はてぬ名のみ残れる恋がくほ今はた問ふも契ならすや」

文献

  1. 大野 延太郎, 烏居 龍藏 1894「武藏國北多摩郡國分寺村石器時代遣跡」『東京人類学会雑誌』第102号
  2. 大野 延太郎, 烏居 龍藏 1895「武藏國北多摩郡國分寺村石器時代遺跡」『東京人類学会雑誌』第106号
  3. 大野 延太郎, 烏居 龍藏 1895「武藏國國分寺村石器時代遺跡」『東京人類学会雑誌』第107号
  4. 大野 延太郎, 烏居 龍藏 1895「武藏國國分寺村石器時代遺跡」『東京人類学会雑誌』第111号
  5. 恋ヶ窪遺跡調査団 1982 『恋ヶ窪遺跡調査報告』恋ヶ窪遺跡調査会他
  6. 国分寺市遺跡調査団 1988 『国分寺市文化財調査報告25:恋ヶ窪遺跡調査報告』国分寺市遺跡調査会他
  7. 国分寺市遺跡調査団 1990 『恋ヶ窪東遺跡発掘調査概報』国分寺市遺跡調査会
  8. 国分寺市遺跡調査団 1997 『恋ヶ窪遺跡調査報告』国分寺市遺跡調査会
  9. 国分寺市遺跡調査団 2008 『恋ヶ窪遺跡調査報告』国分寺市遺跡調査会
  10. 国分寺市遺跡調査団 2016 『恋ヶ窪遺跡調査報告』株式会社日立製作所中央研究所他
  11. 国分寺市教育委員会他 2023 『恋ヶ窪遺跡(第115 次調査)』国分寺市教育委員会
  12. 国分寺市教育委員会他 2023 『国分寺市 本町(国分寺村石器時代)遺跡(第22次調査)』国分寺市教育委員会

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