石岡市立ふるさと歴史館は、石岡市民会館や石岡小学校とともに府中城跡にあり、石岡小学校の校庭の地下には常陸国府跡が保存されている。常陸国府跡は平成10年度から18年度の発掘調査で発見された。国府中央部の国庁と西側に位置する曹司の存在が明らかになった。国府は7世記末頃から11世記頃までのおよそ300年間機能していたと考えられる。国庁のほぼ全容が確認できた例として貴重な遺跡。
常陸国府跡の碑
石岡市立石岡小学校
文献
[1] 茨城県考古学協会 2010「茨城の考古学散歩」東冷書房
石岡の陣屋門
府中城の土塁。府中城は大掾詮国が1346年(正平元年)より数年を費やして築城。1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐に大掾氏一族は参陣をしなかったため、参陣をした佐竹義重に常陸国が与えられ、義重は水戸城を攻めて江戸重通を追い出し、その勢いで府中城も攻め立てた。激戦の末、府中城は落城し、大掾清幹は自害した。これにより大掾本宗家は滅亡した。大掾(だいじょう)氏は、中世常陸国に勢力を持った一族で、軍事貴族。坂東平氏(桓武平氏)国香流。常陸平氏の嫡流。国香の子貞盛の弟繁盛の子維幹が常陸大掾職に任ぜられ、その子孫は代々大掾職を世襲したため、職名から「大掾氏」と呼ばれるようになったとされるが史実では確認できない。源頼朝から常陸大掾職に任じられた常陸平氏の吉田資幹が「大掾氏」の祖と考えれれる。その子孫は水戸城を本拠地として栄え馬場氏とも呼ばれた。