10月28日に千葉県市川市と神奈川県川崎市の国衙・郡衙遺跡の発掘調査の説明会をハシゴした。午前は市川市の国府台遺跡(第28-26地点)見学会に参加。今回の発掘調査は、再整備工事中の国府台球場の北側、下総国の国衙の主要施設を区画すると推定される溝の北東隅(1区)と北西隅(2区)を対象に実施。1区は、3年前のトレンチ調査で溝の一部を確認していた。今回は全面に調査区を設定。2区は1区の北東隅から伸びる東西溝と球場内の調査で確認した南北溝の延長上にトレンチを設定。1950(昭和25)年完成の旧国府台球場は老朽化により2019年12月に一時閉鎖となり、建て替えのため取り壊され、発掘調査を実施。2025年春オープンを目指して建設工事が始まっている。
2区の溝3(区画溝の北西隅)
1区
溝1(白テープ)と溝2(赤テープ)
溝1(白テープ、区画溝の北東コーナー)
溝1の断面
溝2(赤テープ)
掘立柱建物
竪穴建物
国府台公園野球場の再整備(イメージ図)
陸上競技場
- 国府台球場 | 市川市公式Webサイト
- 下総国関連遺構出土の市川・国府台 新球場建設へ起工式 25年春オープン予定:東京新聞 TOKYO Web
- 市川・国府台遺跡の調査結果、千葉県教委が報告 「郡衙との関連強い」と専門家 | 千葉日報オンライン
- 奈良・平安時代の「下総国府」遺構間近に 28日、市川市が見学会 中枢の「国庁」特定目指す発掘報告 | 千葉日報オンライン
- 市川・国府台で「下総の国庁」を探せ 千葉商科大キャンパス内レーダー探査、市が大学側と協議へ:東京新聞 TOKYO Web
本日(9月13日)、国府台公園野球場整備工事が再開し、新築工事に着手することから、工事の安全を祈願する起工式を執り行いました。
— 市川市 (@ichikawa_shi) 2023年9月13日
野球場は令和7年春から供用開始の予定です。野球場の完成を心待ちにしているみなさまにはご迷惑をおかけしますが、今しばらくお待ちくださいますようお願いいたします。 pic.twitter.com/Q7ReGzgudP
この現地説明会は何時からですか?有料記事で肝心な情報が読めません。 https://t.co/EX86r1h6L6
— ぶじん(かんれき) (@kufunmeguri9) 2023年10月18日
10:00〜14:00のようですよ! pic.twitter.com/ook1WbDB0Z
— chiba_kofun (@yukio_0525_) 2023年10月18日
【現地見学会】10/28(土)
— TORU Suzuki (@TORUSuzuki10) 2023年10月18日
千葉県市川市
「下総国府跡」(国府台〔こうのだい〕遺跡)😊
昨年度までの調査成果を まとめてみた🤔👇🏻
グラウンド内は1m近く掘削・整地されていて、国府関連遺構は “皆無”、奈良・平安時代の遺構の “底” 部分を かろうじて検出🧐
さて、今年度の成果は⁉️ https://t.co/XhlXys2OOF pic.twitter.com/Qsmk84OmAK
新たな「大溝(区画溝)」は🤔⁉️
— TORU Suzuki (@TORUSuzuki10) 2023年10月18日
実は、県文化財センターが調査した第192地点(2か所)で確認された大溝は、それぞれ微妙に方向が違っている🧐‼️ pic.twitter.com/owbJ5L0aMK
記者発表資料がアップされていました😊
— TORU Suzuki (@TORUSuzuki10) 2023年10月19日
👇🏻市川市HP>広報>記者会見・報道発表>その他の記者発表(令和5年10月)https://t.co/hxgAxon9YX pic.twitter.com/mcMgrkjxcR
ここは国府があった台地なので国府台(こうのだい)
— 鰻釣人(ウナチョージン) (@eel_fisherman) 2023年10月28日
ココには国衙があったのか? pic.twitter.com/VVRok2B596
昔の下総国府を調べている遺跡発掘の報告会が行われ、同じ日が國府神社例大祭というめぐり合わせ。市川市の国府台。良いお日柄で何よりでした。明日は神輿渡御。 pic.twitter.com/TwRcVdP4TM
— KASE Ken-ichi@神宮外苑の破壊を止めよう (@kase_ichi) 2023年10月28日
国府台遺跡の見学会行ってきました。国衙の主要施設を区画すると推測される溝の角見てきました😊
— ゆかこにゃー🐾 (@yukako_nya) 2023年10月28日
これぞ下総国府・国衙!というわかりやすい遺構ではないけれど溝大事
出土した墨書土器などの素敵な土器も並べてありました😃
これからの調査で国衙らしい遺構が出てくるといいな pic.twitter.com/JMHCI8Eegd
国府台遺跡現地説明会に行って来ました。
— chiba_kofun (@yukio_0525_) 2023年10月28日
下総国衙の中心である国庁が近くにあったとされる国府台野球場の建て替えに伴うもので、幅1.7m、深さ1mの溝により区切られた東西220mの方形区画の東西の角を見ることが出来ました。なお、調査範囲からは、竪穴式住居と掘立柱建物も見つかっているとのこと。 pic.twitter.com/bAN9Ot7Wkv
6年前に開催された国府台遺跡第192地点の現地説明会が現地説明会の初体験だった。
昨年も見学会があったがこの時は真福寺貝塚(さいたま市)の説明会に参加して、こちらは不参加。
今回の現説は、県営住宅の建て替えに伴う発掘調査。千葉商科大学と弘法寺と間に位置する場所です。今回の主な発掘成果は、①商科大内でも確認されている続きの大溝と土橋。②土橋に隣接した掘立柱建物。③版築遺構。以上の3つとのこと。#国府台遺跡見学会#下総国衙跡 pic.twitter.com/GoWnLXf1y7
— chiba_kofun (@yukio_0525_) 2022年9月23日
①版築遺構
— chiba_kofun (@yukio_0525_) 2022年9月23日
元々、軍の施設があり、その後に県営住宅が建てられた経緯があり、上層の改変が大きく、何が立っていたかは分からないが、重たい建物があったことは間違えない。寺院建築か倉が推測される。官衙跡から、版築遺構が見つかるのは、稀ではあるが、国府台遺跡では、これが3件目。 pic.twitter.com/mhmva8cYE1
②大溝と土橋
— chiba_kofun (@yukio_0525_) 2022年9月23日
隣接する商科大内でも確認されていた国衙の敷地の境とされる大溝。今回、その延長上で大溝の続きが見つかった。規模は幅3m、深さ2m以上。さらに、この遺構の通路としての土橋も見つかった。 pic.twitter.com/4KPstL2RbM
③掘立柱建物
— chiba_kofun (@yukio_0525_) 2022年9月23日
版築遺構より大きく、発掘調査の敷地を超えて続いている。なお、柱穴はφ1mほど。実際の柱はφ40cmほどと推測。大溝に隣接し、平行に建てられている。
とのこと。
このほか、国衙の作られる前の竪穴式住居跡も。
※①〜③の順番が変わってしまい、すいません。 pic.twitter.com/210uCO29yy
以前の隣接する遺跡での出土品の数々。なんと、埴輪片も!! pic.twitter.com/ulFuMDwFMu
— chiba_kofun (@yukio_0525_) 2022年9月23日
国府台遺跡の現説会のあと、国庁推定地とされる国府台球場へ。現在、建て替えのため更地になってました。
— chiba_kofun (@yukio_0525_) 2022年9月23日
ここもこれから調査がされるんですかね?#国府台遺跡見学会#下総国衙跡 pic.twitter.com/KOOxOuv1Yb
国庁の解明ですね🤔
— TORU Suzuki (@TORUSuzuki10) 2022年9月24日
しかし、基本計画には存在が明らかな国府跡をどうする、という言葉が一言もなく、心配です。野球場というと、鴻臚館の再来でしょうか😓
👇️市川市HP>スポーツ振興計画―国府台公園(スポーツセンター)再整備基本計画https://t.co/MrZWYj2BmO pic.twitter.com/8yVwWcBIZg
昨年度の192地点の大溝(幅3m、深さ2m)👇🏻と比べると、ずいぶん、違いますね🤔
— TORU Suzuki (@TORUSuzuki10) 2023年11月17日
かなり、上部が削られているのでしょうか? pic.twitter.com/UkihZJo7N3
下総総社跡(六所神社跡)
下総総社跡(六所神社跡)
7世紀後半の日本は、天皇を中心とした法治国家をつくろうとしていました。そして北海道、東北地方の一部、沖縄をのぞく各地を60余国にわけ、国ごとに整備をすすめました。下総国は現在の千葉県北部を中心 に、茨城県、東京都、埼玉県の一部にあたります。その国府(役所を核にした都市)は市川市国府台にありました。国府には政務や儀式をとり おこなう国庁があり、国庁を中心に国衙(官庁街)がひろがっていました。 下総国庁は現在の野球場付近にあったといわれています。
国司(国府の役人)は国内の有力神社を管理し、参拝する義務がありました。しかし、広い国内をまわるのは大変だったので、平安時代後半になると国庁ちかくに国内の神々をあわせまつった神社がたてられまし た。その神社を総社・六所神社といいます。また国司がそのころよわまっていた影響力をとりもどすため、神の加護を得ようとしたともいわれ ています。
六所神社は明治19年に須和田に移転し、軍用地となったあとも「六所の森」としてのこっていました。また、六所神社跡周辺の地名は「府中」と呼ばれていました。
陸上競技場周辺を発掘した結果、神社そのものの遺構はみつかりませんでしたが、六所神社を区画していた溝跡がみつかっています。また、千葉商科大学内ではこの溝とともに、参道跡もみつかっています。こう した調査結果から、初期の境内地は「府中」の範囲にあたり、国街の北東に設置されたことがわかりました。