越中島支線の煉瓦造の橋台群を散策の続き。
大島架道橋(ガード)
山崎架道橋(ガード)
庚申架道橋(ガード)
江東区登録史跡 庚申道跡
明治通りから横十間川へ向かうこの道は、庚申道と呼ばれていました。明治44年(1911)の東京逓信管理局作成の地図を見ると「字庚申道」と記されています。
この道の西側、大島1-18に「釜屋堀庚申様地蔵尊」という幟(のぼり)の建てられたお堂があります。このお堂は昭和62年頃まで突き当たりにあり、「三つまたの庚申様」とも呼ばれていました。昭和7年(1932)に刊行された『大島町誌』 には、「庚申堂」として旧大島村甲七十番地にあること、猿田彦大神を祀ること、その由緒は未詳であることなどが記されています。現在、堂内には青面金剛を浮き彫りにした庚申塔とお地蔵様が祀られ、大切に守られています。
かつては、道の中央に小川があり、子どもをたらいに入れて流すと厄払いになるという言い伝えがありました。また、沿道には八百屋・魚屋・駄菓子屋などが並びにぎわっていました。「庚申道」の名は、この鉄道橋に今も残り、新大橋通りが貫通する以前の大島の古い道と町並みの様子を偲ばせています。
子名木川橋梁(ガード)
釜屋の渡し跡(大島1-18〜北砂1-3)
釜屋の渡しは、上大島村(大島一)と八右衛門新田(北砂一)を結び、小名木川を往復していました。名称は、この対岸に江戸時代から続く鋳物師、釜屋六右衛門・釜屋七右衛門の鋳造所があったことにちなみます。写真は明治末ごろの釜屋のようすです。川沿いに建ち並ぶ鋳物工場と、そこで働く人々や製品の大釜が写っています。
明治の初めごろにはすでに、対岸の農耕地などへ往来する「作場渡船」に類する「弥兵衛の渡」がありました。「大島町誌」(昭和7年刊行)によれば、大正7(1918)年7月5日に「営業渡船」として許可されています。利用状況は、平均して1日大人200人、自転車5台、 荷車1台で、料金は一人1銭、小車1銭、自転車1銭、荷車2錢、 牛馬1頭2銭とあります。
北砂緑道公園
小名木川の歴史
小名木川は、千葉行徳の塩を蔵前に運ぶ「塩の道」として知られています。徳川家康の江戸開幕とともに、運河として開削され、江戸の流通経済に大きな役割を果たしました。
小名木川(約4.6Km)