週末は古墳巡り

古墳とは、およそ3世紀から7世紀に築かれた墳丘状の墓のこと。その数、およそ20万基。

熊野十二社神社古墳 本庄市東富田

東富田古墳群を散策。1基目は熊野十二社神社古墳。文献[1]によると「円墳、径25m、葺石」

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熊野十二社神社
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熊野十二社神社

所在地:本庄市東富田301

熊野十二社神社の祭神は、国常立尊で、延享年間(1744〜1748)に勧請したと伝えられ、社殿は現在覆屋の中にある。

社殿のある小高い丘は、古墳であり、同様なものが周辺に分布している。この古墳群は、東富田古墳群といい、 特に、今の種子センターの地にあった公家塚古墳は、県下でも数少ない古墳時代初期のものであった。また、神社の北にある冨田寺(ふくでんじ)は、山号愛宕山照明院といい、本尊は阿弥陀如来である。

昔、児玉党一族の富田氏の祈願所であったと伝えられ、西方には、「代官屋敷」と称される屋敷址があったと言われている。

昭和61年3月 埼玉県 本庄市

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第62回伊勢神宮式年遷宮記念

熊野十二社神社 御由緒 本庄市東富田301

□ 御縁起(歷史)

 東富田は、かつては隣の大字西富田と一村で富田村と称していた。分村した年代は明らかでないが、天正十八年(1590)四月の「信茂判物」(鈴木家文書) には、「両富田之村」とあることから、中世末期には、既に二村に分かれていたと考えられる。

旧富田村は、鎌倉街道が通り、平安末期には武蔵七党児玉党の氏族富田氏の本拠地であり、富田三郎親家が居館を構えていた。口碑によると、この親家が当社を紀伊国(和歌山県)の熊野那智大社から勧請するとともに、境内のすぐ北隣に、祈願所として冨田寺(ふくでんじ)を開基し、当社の社務を兼帯させたという。創建の経緯については、親家のころに書かれたと思われる「児玉在所引旦那名字注文写」(熊野那智文書)には「とミた」と同氏の名が見えることから、恐らくは熊野修験の当地周辺での活動が背景となり奉斎されたものであろう。

ちなみに、当社名の「十二社」とは、熊野三所権現と五所王子さらに四所宮を合わせた十二社権現であったものを明治以降、天地修固の天神七代地神五代の十二代の神霊としたものである。

明治五年当社は村社となった。更に同四十年、字山根の浅間神社、字下田の金佐奈神社、字元屋敷の熊野十二社神社の三社を合祀した。なお、社殿は延享年間(1744-48)に建てられたといわれ、その後、平成二十五年損傷の著しい社殿を造り替え、現在に至っている。

□ 御祭神と御神徳

国常立尊(くにとこたちのみこと)・・・厄除、開運

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冨田寺
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火の見櫓
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120公卿塚古墳趾, 121元富東古墳, 122西原古墳, 123〜127 遺跡名の記載なし(熊野十二社神社古墳は123)

文献

[1] 埼玉県教育委員会 1994「埼玉県古墳詳細分布調査報告書

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