金鑚神社古墳から北西に徒歩約15分の駒形神社の隣の釈迦堂墓地にある本庄市指定文化財の平重衡の首塚を訪れた。平重衡(しげひら)は平清盛の五男、治承4年(1180年)12月、清盛の命により南都焼打、 寿永3年(1184年)2月の一ノ谷の戦いで平氏は源範頼・義経の鎌倉源氏軍に大敗を喫し、敗軍の中、重衡は馬を射られて捕らえられた。本庄市によると「一の谷の合戦で児玉党の庄四郎高家に生け捕られた重衡は鎌倉に送られて源頼朝に面会した後、南都の僧兵に引き渡されました。その後、処刑された重衡の首を、庄高家は自分の領地蛭河郷に持ち帰り、手厚く供養したといわれています。蛭川の駒形神社の隣の釈迦堂墓地にあります。」
この地は、一の谷の合戦の後、捕らえられた平重衡の首を児玉党の蛭河庄四郎高家がこの地へ持ち帰り供養した首塚であると伝えられている。
昭和六十年七月十日八百年忌建立 吉祥院三十七世山田真雄代
駒形神社 御由緒
本庄市児玉町蛭川二一四
□ 御縁起(歷史)
当地は、児玉党蛭川氏の本貫地とされ「児玉党系図」では摂津一ノ谷合戦で戦功のあった庄四郎高家の子定重が蛭河太郎を称している。当地の中央やや北東寄りの小名東廓で、蛭川氏の館の周囲を巡っていたと伝わる堀跡が確認されている。応永二十五年(1418)の「足利持氏御判御教書」には「児玉郡蛭河郷」と見える。
当社の創建については『児玉郡誌』に「当社は延喜年中(901-923)有道宿禰氏道、牧宰惟継、旧字宮田(現在鳥居)の地に勧請する所にして延久年間(1069-74)武蔵守維行の男弘行、当国御牧の別当の時牛馬の守護の神たるを以て良馬蕃殖を本社に祈り、社殿を修理し神田若干を寄附す。(中略)天文(1532-55)の末、北条氏康平井上杉氏と合戦の時兵火に罹り烏有に帰したるに依り、現今の地即ち字坊畑に仮宮を営む。(後略)」と載せられている。
蛭川氏の館跡から見て北東にかつて金鑽神社があり、南西には当社が鎮座することから、あるいは蛭川氏によって館の鬼門に祀られたのが金鑽神社で、裏鬼門に祀られたのが当社であったとも推測される。
『風土記稿』蛭川村の項には「駒形権現社 村の鎮守、能淵寺持」とある。 別当の能淵寺は真言宗の寺院で、開山等は不明である。
当社は、明治初年の神仏分離により能淵寺から離れ、後に村社となった。明治四十年には、金鑽神社をはじめ地内の六社を合祀した。
□御祭神と御神徳
・駒形神・・・馬を保護し、その病を癒す