週末は古墳巡り

古墳とは、およそ3世紀から7世紀に築かれた墳丘状の墓のこと。その数、およそ20万基。

天神塚古墳 皆野町金崎

金崎古墳群の天神塚古墳(大堺4号墳、氷雨塚)。文献[1]では「大正年間に発掘、直刀」「石室は袖無型、南に開口、全長6.00m、幅1.20m、側壁は変成岩(板石)を互目積」文献[2]では「県指定史跡、大境4号墳、氷雨塚、円墳、径13m、横穴式石室、直刀・埴輪が出土」

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金崎神社(かなさきじんじゃ) 御由緒 皆野町金崎109

◇国造(くにのみやつこ) 知知夫彦命(ちちぶひこのみこと)・知知夫姫命(ちちぶひめのみこと)を祀る神社

当社は、現在十二天山の南東、字岩下の旧八坂社境内地に鎮座しているが、以前はここからやや西に寄った社中山(しゃちゅうやま)の中腹に鎮座していた。社中山は宝登山の裏手に当たり、そこからは国神方面が一望できる。

社記によれば、当社は本郡の旧跡である国造知知夫彦命・知知夫姫命の古塚近くの山にあり、古墳の祭神二柱を祀っているところからこの嫁とは縁があるという。また、『新編武蔵風土記稿』には、「野栗社 諏訪社 貴船社 以上三社合殿、村の中程、村の総鎮守、無年貢地、例祭七月二十七日、神主宮前主計」とあり、当社は初め、野栗三社権現と称し、三社合殿で祀られていたが、大正期には既に氏子の間では、野栗社と貴船社の事は忘れられ「お諏訪様」とのみ呼ばれていた。

明治四十年(1907)に宇馬場の八幡社、字岩下の八坂社・天満天神社、 字瀬戸山の十二社大神社・稲荷社、字腰の大山祇社を合祀し、同四十三年(1920)に村社となった。

社名はこの時、村名をとって金崎神社とした。更に、昭和五十三年 (1978)には現社地に遷座して、今日に至っている。

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文献

[1] 埼玉県 1982「新編埼玉県史 資料編 2 原始・古代 弥生・古墳」

[2] 埼玉県教育委員会 1994「埼玉県古墳詳細分布調査報告書」

[3] 宮川進 1997「さいたま古墳めぐり」

[4] 塩野博 2004「埼玉の古墳 比企・秩父」さきたま出版会

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