週末は古墳巡り

古墳とは、およそ3世紀から7世紀に築かれた墳丘状の墓のこと。その数、およそ20万基。

旧藩主松平家の墓

天祥寺の墓地にある旧藩主松平家の墓をお参り。

f:id:kofunmeguri:20240211145901j:image
f:id:kofunmeguri:20240211145847j:image
f:id:kofunmeguri:20240211145905j:image
f:id:kofunmeguri:20240211145850j:image

行田市指定文化財 旧藩主松平家の墓 昭和47年11月9日指定

ここ海東山天祥寺は、忍城主松平下総守家の菩提寺で、文政6年(1823)に松平家桑名城より忍城に移った後にこの地に移転されました。

この墓地には、向かって右側から松平家9代忠堯(ただたか)、11代忠国(ただくに)、12代忠誠の3代の忍城主の墓が並んで建てられています。

9代松平忠堯は、忍城に移った時の当主で、桑名から天祥寺、東照宮などを移転し、天保7年(1836)には藩校進修館を再興するなど、家と家臣団の忍城への移転を見事に遂行しました。

11代松平忠国は、天保13年(1842)に幕府の命令で異国船警備のために房総半島に出兵、その後品川沖三番台場の守備に当たるなど幕末の国防に深く携わりました。

12代松平忠誠は、明治維新時の当主で、新政府軍が忍城下に迫った際に恭順の意を示し、無事に難局を乗り切りました。

これら城主の墓は、当初は墓地の北側に並んでいましたが、墓地の改修で現在の場所に移されています。墓石の形は皆同じで、高さ4.5m、三重の台石の上に石の玉垣が巡らされています。

平成25年3月 行田市教育委員会

f:id:kofunmeguri:20240211145854j:image

天祥寺再興之碑

古代人の眠る古墳に隣接した松平家菩提寺海東山天祥寺は □□□□していたが風土記の丘が整備され忍城の再建が成るに及び 寺の再興は心ある行田市民の悲願となった 昭和四十四年寺域確保のため奉賛会を設立し文化的使命に燃えて 埼玉県との等価交換方式により困難を克服し寺域 再興は奉賛会有志の弛みない努力の賜物である 幸い松平家三代の墓所行田市文化財指定の威厳を保つ事が出来た 当地の歴史を残す為ここに碑を建てるものである。

平成十八年三月吉日 天祥院殿奉賛会 会長佐藤孝太郎 十五代松平忠晃

f:id:kofunmeguri:20240211145857j:image

天祥寺由来

旧幕時代大名の数、二百七十余藩というが、拾万石以上は五十余のみ、而も大名格の溜間詰は最高の格式にして、井伊大老、松平下総守外六家に過ぎず、御三家、加賀百万石より上位なり。

初代忠明公は家康の外孫、初代唯一の大阪城主として大阪復興にあたり、後に姫路城主となり西国探題の名君たり。

天祥院殿と法名す。即ち天祥寺開基、京都妙心寺に現存する塔頭、天祥院の本寺たり。

九代忠堯公、桑名より忍に移封、天祥寺を今の埼玉に建立、十一代名君忠国公、十二代忠誠公の三君、この蛍域の地下に眠る。

近時、この地、風土記の丘と称し、古墳群を埼玉県名発祥の地として自然公園とす。現在松平家墓所行田市文化財の指定を受けて目下大方の檀家のご協力を得、加藍建立途上にあります。

にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ
にほんブログ村