週末は古墳巡り

古墳とは、およそ3世紀から7世紀に築かれた墳丘状の墓のこと。その数、およそ20万基。

石田堤史跡公園 鴻巣市袋

11月18日のシンポジウムの前に、鴻巣市の石田堤史公園で石田堤を見学した。

f:id:kofunmeguri:20231118221703j:image
f:id:kofunmeguri:20231118221659j:image
f:id:kofunmeguri:20231118221655j:image
f:id:kofunmeguri:20231118221651j:image
f:id:kofunmeguri:20231118221826j:image
f:id:kofunmeguri:20231119052444j:image
f:id:kofunmeguri:20231119052451j:image
f:id:kofunmeguri:20231119052447j:image
f:id:kofunmeguri:20231119052535j:image
f:id:kofunmeguri:20231118221928j:image
f:id:kofunmeguri:20231118221932j:image
f:id:kofunmeguri:20231119052331j:image

断面見学施設について

石田堤は1590年(天正18年)に石田三成忍城を水攻めに際し築いたといわれています。

史跡公園整備にあたり、平成8年度と9年度にこの断面見学施設付近の調査を実施しました。二度にわたる調査の結果、堤は東側の土を西側に向かって斜めに積み上げたことが判明しました。当初は、堤の幅を現存している部分の最も広いところが全幅と考えていましたが、西側にさらに広がり、整備予定地の外に延びることが分かりました。

この展示擁壁の目的は、堤の土を積んだ様子を模式的に表現してあります。一番下の目地は堤が築かれた当事の地表面を表現しています。また、堤の構造は中央にはめ込んだ土層(レプリカ)のようになっており、堤を築く過程での土をつき固めた版築の様子を見ることができます。

f:id:kofunmeguri:20231118222039j:image
f:id:kofunmeguri:20231119052211j:image

石田堤史跡公園

町指定史跡 石田堤 

指定年月日 平成5年5月17日

石田堤は天正18年(1590)に石田三成忍城を攻めるときに築きました。同年6月20日付けの豊臣秀吉石田三成に宛てた朱印状で「水責めの普請を油断なく行うように」「普請ができあがったら使者を派遣して見に行かせる」との記述から分かります。

完成当時の総延長は約14kmで、利根川右岸の行田市白川戸付近から小見、長野、三成が本陣を置いたと言われる埼玉の丸墓山古墳を横切り、樋上、堤根、袋、鎌塚、門井、太井、戸出、平戸を経て熊谷市の久下の荒川左岸に至ったと伝えられています。 今回の整備地区は、堤がほぼ南北に断続的に約120m残っています。発掘調査は、平成7年度から9年度にかけて、整備区域内にトレンチを設定し実施しました。調査の結果、堤の東側の立ち上がりは確認できましたが、西側は崩壊が著しいか、区域外に延びていたため堤の全幅を正確には把握できませんでしたが、20m程度と推測されます。

整備と活用

石田堤は豊臣秀吉小田原征伐の一環として、石田三成が行田の忍城を攻めたときに築いたと伝えられています。総延長約14kmありましたが、現在は吹上町袋から行田市堤熱にかけて300m程度残っています。

吹上町では平成元年から用地購入の交渉をはじめ、平成7年度には「石田堤史跡公園整備基本計画」を町文化財保護員会を中心に 策定し、整備の基本方針を決定しました。その後、平成8年度から10年度までの3箇年かけて自治省の「地域文化財保全事業」によ り、史跡公園として整備しました。

この公園は、発掘調査により堤の遺構の状況を確認しながら保存修復を行い、同時に広く地域住民等の憩いの場、歴史学習の場として機能するように配慮しました。南から「堤修復ゾーン」 「シンボルモニュメントゾーン」「堤保全ゾーン」「広場活用ゾーン」 の4つのゾーンを設定し、相互に調和のとれた公園となるように心がけました。

f:id:kofunmeguri:20231119090030j:image
f:id:kofunmeguri:20231119090026j:image
f:id:kofunmeguri:20231119090022j:image
f:id:kofunmeguri:20231119090108j:image
f:id:kofunmeguri:20231119090115j:image

天正18年前後の関東の様子

天正17年(1589)の上野沼田城将猪俣邦憲が、名胡桃城を奪取したことに端を発する小田原「征伐」は、翌年の正月に、徳川家康が先鋒となり、東海道の軍勢を率いて駿府城を進発、それから間もなく前田利家も加賀・能登越中の軍勢を率いて上野へと向い、また中国地方の毛利輝元も秀吉の命によって水軍出動の準備を整えていた。そして3月1日、秀吉は自ら3万2千の大軍を率いて京都を発って小田原へ向かった。

これに対して後北条方は、小田原城内に氏政・氏直父子のほか、氏照・太田氏房・佐 野氏忠・成田氏長・上田憲定・内藤直行・松田憲秀をはじめとする領国内の主だった者たちが籠城していた。また領国内要所の支城には一族・重臣は豊臣軍の進撃に備えていた。

すでに3月末頃より、信濃方面から上野(群馬県)に入った上杉・前田連合軍は、松井田城に攻撃を開始しており、4月半ばには真田昌幸・信幸の軍勢もこれに参加、ついに開城にいたった。この前後に上野の西牧・国峰・厩橋・箕輪や下野(栃木県)佐野城など があいついで開城、4月21日には玉縄城の北条氏勝が豊臣軍に降り、4月23日には佐竹 義宣・宇都宮国綱軍によって佐野・壬生・鹿沼城も攻略された。さらに4月末~5月半ばまでには武蔵の江戸・河越(川越市)・松山城(吉見町)や下総の佐倉・臼井城なども落城し、わずかに小田原本城と氏規の拠る韮山城、そして岩付(岩槻市)・鉢形(寄居町)・八王子・ 忍(行田市)・津久井城を残すのみとなっていた。

f:id:kofunmeguri:20231119090112j:image

にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ
にほんブログ村