週末は古墳巡り

古墳とは、およそ3世紀から7世紀に築かれた墳丘状の墓のこと。その数、およそ20万基。

箕田氷川八幡神社 鴻巣市箕田

古笊田堰の次に訪れたのは、箕田氷川八幡神社

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箕田氷川八幡神社御由緒 鴻巣市箕田二〇四一

□御縁起(歴史)

氷川八幡神社は、明治六年、当時箕田郷内に祀られていた氷川社、八幡社など二十余社のお社を併合して、箕田郷の郷社として八幡社のあった現在地に祀られたものである。

氷川社は、承平八年(西暦938年)清和天皇の孫である源経基(つねもと)が武蔵の国の国介(くにのすけ)になってこの地に赴任して統治した際、大宮の氷川神社から勧請(分けて祀ること)したと伝えられており、中宿地内に祀られていた。

八幡社は、源経基の臣下であった源 仕(つかう)が経基と相談して、天慶四年(西暦941年) 現在地に京都の石清水八幡宮から勧請したもので、仕の孫の渡辺綱(つな)によって神田(しんでん、八幡田の地名あり)が寄進され再興されたものである。

仕は、嵯峨(さが)天皇のひ孫にあたり、平将門の乱藤原純友の乱の平定に武功をあげ、武蔵の国の国守に任ぜられてこの地に住んだものであり、網は、丹波大江山に住む鬼を退治した逸話で有名な武将である。

ともに武勇に優れ、戦いの折はこの八幡社に祈願して武勲をたてたので、八幡社は後世、戦いの神様として近隣の崇敬を集めた。

箕田碑
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鴻巣市指定歴史資料 昭和36年7月11日指定

箕田碑(みだひ)

箕田は武蔵武士発祥の地で、平安時代に多くのすぐれた武人が住んでこの地方を開発経営していた。

源経基(六孫王清和源氏)は文武両道に秀で、武蔵介として当地方を治め源氏繁栄の礎を築いた。その館跡は大間の城山にあったと伝えられ、土塁・物見台跡などが今でも見られる(県史跡)。箕田に住んだことから箕田源氏と称した源仕(つごう、嵯峨源氏)は、知勇兼備の武人で経基を助けて大功があった。その孫の綱(つな、渡辺綱)は頼光四天王の随一として剛勇の誉れが高かった。箕田源氏三代(仕・ 宛(あつる)・綱)の館跡は満願寺の南側の地であったと伝えられている(県旧跡)。

箕田碑はこの歴史を永く伝えようとしたもので、指月慧印(しげつえいん)が宝暦9年に撰文し、山本竜斎維碩の筆による碑文である。

裏の和文草体の碑文は、碑が建てられた約20年後の安永7年に刻まれた。松尾芭蕉・白井鳥酔の句を記して源経基源仕渡辺綱らの文武の誉れをしのんでいる。

鳥酔の門人が加舎白雄こと志良雄坊で、白雄の門人が当地の桃源庵文郷である。白雄がたまたま文郷を尋ねて滞在した折に刻んだと思われる。

参考: 宝暦9年(1759) 安永7年(1778)

令和3年3月 鴻巣市教育委員会

天神社
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氷川八幡社と箕田源氏

氷川八幡社(ひかわはちまんしゃ)は、明治6年に箕田(みだ)の鎮守であった八幡社と同じ村内の氷川社を合祀して現在の社名となった。

八幡社は、藤原純友(ふじわらのすみとも)の乱を鎮めた源仕(みのもとのつこう)が京都の石清水八幡宮から分霊を勧請(神社の祭り神を分けて別の場所に祭ること)し、氷川社は、六孫王源経基(または源仕とも)が承平元年(931)に勧請したとそれぞれ伝えられている。

また、八幡田の地名の由来は、源仕の孫である渡辺綱(わたなべのつな)が神田(しんでん)を八幡社の為に奉納したことによる。箕田地域は、嵯峨源氏の流れを汲む箕田源氏発祥の地で、源仕、源宛(みなもとのあたる)、渡辺綱の三代はこの地を拠点として歴史に名を残す活躍をしたのである。

源仕は、嵯峨天皇の第八皇子河原左大臣源融(みなもとのとおる、嵯峨源氏の祖)の孫で、寛平3年(891)に生まれた。長じて武蔵国箕田郷と呼ばれたこの地に居を構えた。周辺の土地を開墾し、家の子・郎党を養い、次第に力を蓄えていった。智勇兼備の武将として武蔵介源経基に仕え、承平・天慶の乱に功を立てて従五位上武蔵守となった。

天慶5年(942)没。享年52歳。

源宛は、仕の子で弓馬の道にすぐれ、天慶の乱では仕に従って西国に赴き武功を立てたが、天暦7年(953)に21歳の若さで没した。宛の武勇は広く知られており、その様子は『今昔物語集』に平良文(たいらのよしふみ)との一騎打ちが説話として残されている。

渡辺綱は、源宛の長子として天暦7年(953)に箕田に生まれた。幼くして両親を失ったため、従母である多田満仲の娘に引き取られた。摂津国渡辺で育ったことから渡辺姓を名乗った。幼少より勇名を馳せ、長じては源頼光(みなもとのよりみつ)に仕え、世に頼光四天王の第一と称され剛勇で知られた。

後に丹後守に任ぜられた。万寿2年(1025)2月15日没。享年73歳。八幡社右手奥にある宝持寺には綱の位牌が残されている。法名を「美源院殿大総英綱大禅定門」という。また、次のような辞世の句が伝えられている。

 世を経ても わけこし草の ゆかりあらば

   あとをたつねよ むさしののはら

【箕田館跡】源仕を始めとする源家三代の館は氷川八幡社の北側にあったと伝えられ、現在でも周辺は殿山と呼ばれている。しかし、かつてここに館があったことを偲ばせるものは見当たらない。

平成二十四年二月 鴻巣市教育委員会

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箕田原氏のふるさと 渡辺鯛のルーツに迫る 箕田に残る歴史と昔話

嵯峨天皇の流れを汲む源(みなもとのつこう)は、足立郡箕田郷に土着して箕田源氏の祖となりました。

仕の子の源宛(みなもとのあたる)は「今昔物語集」に平良文との合戦の説話が残されています。

仕の孫であり宛の子である渡辺綱(わたなべのつな)はこの地で生まれ、摂津の国渡辺(大阪市渡辺)で養育されたことから、渡辺の姓を名乗りました。

渡辺綱は武勇に優れ、源頼光(みなもとのよりみつ)に仕える四天王の筆頭と呼ばれ、鬼や妖怪退治にまつわる様々な説話が伝えられています。

渡辺綱が祖父と父を弔って建立したと伝えられる宝持寺には、全国から渡辺姓の皆さんが訪れています。

また、氷川八幡神社境内には宝暦9年(1759年)に建立された「箕田碑」があり、箕田源氏の伝承や渡辺綱の辞世などのほか、この地が武蔵武士発祥の地であることが記されています。

宝持寺
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新本堂建立記念碑

当山は 今より一千年前に渡辺綱が 祖父(箕田源氏の祖源仕)父(源宛)の菩提を弔う為に建立したと伝えられています

渡辺綱源頼光に仕えた四天王随一と云われ 大江山酒呑童子退治や京の一条戻橋では 付近に出没する鬼要の腕を切り落とした事で有名な武将で 渡辺氏を名乗り嵯峨源氏一統の総領となりその名を残した人物です

永正年間(1504〜20年)に東松山市永福寺」の第二代住職壑雲玄巨人大和尚によって曹洞宗寺院として再興され徳川幕府より五石の御朱印を賜り 伽藍も立派で勢力を誇っておりましたが 相次ぐ火災のため昔日の面を失てしまいました。

従来の本堂が大正11年に古材を再利用して改築されたもので老朽化も進み床の軋みや天井からの雨漏り等の憂うべき現状でありました

このため 改築造立を発願し 平成12年の檀信徒総会において決定を見 また平成14年は曹洞宗の開祖道元禅師様750年の大遠忌にあたり 高祖様への御報恩の為に この事業が実施されました

この「とき」に出会った因縁を積極的に受け止めていただき 宝持壇信徒の総力を挙げて立な本堂を建立することができました 謹んで 御先代 御先祖様に御報告申し上げ また私たちの子孫に誇りをもって引き続いていくため ここに記念として石碑に刻むことと致しました

平成18年3月吉祥 曹傅山 美源院 宝持寺 三十八世住職 宝持寺本堂建設委員会

全国渡辺(部)会の建立した嵯峨源氏顕彰碑
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嵯峨源氏渡邊(部)氏関係系譜
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みどころ | 宝持寺 - 渡辺綱が建立したとされる埼玉県鴻巣市のお寺

北本市史 >> 通史編 >> 古代・中世「第3章 武士団の成立/第1節 律令制の崩壊と治安の悪化/嵯峨源氏と箕田庄開発」

東京都港区の歴史 / 古代 第四章 古代末期の港区域とその周辺 / 第二節 『今昔物語集』にみえる武蔵国と港区 / 源充(宛)と平良文

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