週末は古墳巡り

古墳とは、およそ3世紀から7世紀に築かれた墳丘状の墓のこと。その数、およそ20万基。

大山阿夫利神社 参道二の大鳥居 伊勢原市上粕屋

伊勢原市の古墳巡りの続き。

大山阿夫利神社 参道二の大鳥居で、大鳥居復元の由来と大山道について学ぶ。

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大山阿夫利神社 参道二の大鳥居復元の由来

江戸時代末期国情賂然たるの時 上粕谷村を中心とする百四十余名の郷土の先輩たちがひたすらに天下泰平と国土の安穏を祈念して遠く西国の地にその素材を求め 智力と技術の粋を尽くして成し遂げた二の鳥居建立の偉業には唯々頭を垂れるのみである。

以来今日まで二度の災禍に遭い取壊したまま今日に及んでいたが 今回地元の有志山口匡一氏からの敷地ご提供によって 建立以来満百四十年に当る此の歳 大山神社を真向いに望む恰好の地に赤御影石による建設当時の成容を復元し以て祖先の顕彰し得たことは 阿夫利神社並びに郷土の歴史に一段の光採を添えたものと思考されるのである

ここに此の挙を成すに当り最も腐心したる点は この鳥居が真に文化財建造物としての美観と風格を損することなく尚且つ 将来如何なる激震にも耐え得るものを建設することにあった 幸い施行者一同の協力によってその夢を果たし得たことは誠に感激に絶えず この事業に対し終始ご指導 ご鞭撻を賜った 県市ご当局 神社並びに地元関係者に満腔の敬意と感謝の意を表するものである

維時 平成三年七月吉日 施主 山田恒雄 之を誌す

大山阿夫利神社

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伊勢原市内の大山道と道標

伊勢原市のシンボル・大山には、古来より山頂に石尊大権現が鎮座し、中腹には奈良時代の僧・良弁が開創した大山寺がありました。

石尊大権現は降雨や豊作・豊漁、商売繁盛などの神として、大山寺の本尊・鉄造不動明王は、「大山のお不動さん」として篤い信仰を集めました。大山信仰を広めたのは、御師(現在は、先導師)と呼ばれる人たちでした。各地に大山講を結成し、大山と講中を結び付けました。檀家を廻り、お札を配って歩きました。講中の大山参詣の際には、案内や宿を提供しました。また、徳川家光や乳母の春日局も、堂宇の整備を支援しました。幕府や大山御師の活動などにより、江戸時代中期から後期にかけ、大山参詣は隆盛を極め、人々は関東一円はもとより、周辺の国からも相模大山を目指しまし た。日頃は大山寺不動堂(明治初年の神仏分離後は、阿夫利神社下社)から山頂の石尊社(現阿夫利神社 本社)までの登拝は許されず、登山ロにある門は閉じられていました。しかし、夏山と呼ばれる旧暦の6月27日から7月17日までの間は開扉され、万余の参詣者が集まったといわれています。その賑わいぶりは、葛飾北斎安藤広重が描いた浮世絵からもしのぶことができます。

各地から大山へ至る道は、「大山道」とも呼ばれ、図にあるように、東西南北の方向から大山の麓へと伸びていました。特に江戸から大山への道は、参詣者が多いこともあってか、代表的な大山道 とされています。日本橋を起点として、東海道戸塚宿の手前、柏尾から大山へ向う「柏尾通り大山道」、藤沢宿の西、四ッ谷から右折する 「田村通り大山道」、 大山への近道とされる青山百人町からの「矢倉沢往還」です。 三つの道とも大山に至る途中、相模川を舟渡しで越えました。上流から厚木、戸田、田村の渡しです。

道中手形も必要ではなく、江戸からは3〜4泊の旅行であったといわれています。 大山参詣の後、 江ノ島・鎌倉を周遊して帰る、といった信仰と娯楽を兼ねた旅でもあったようです。

図を見ると、伊勢原市内では大山道が北・東南から大山の麓、石倉辺りに集まってくる様子がよくわかります。明治以降道路の改修や新設、耕地整理等により、大分変わっていますが、一部には往 時の雰囲気を残すところがあります。また、赤丸は大山道道標の代表的なものの位置です。「此方 大山道」といった大山方向の案内や、「日本橋廿里、江の嶋七里」と大山帰りの方向を示す道標があります。文字だけの道標や不動明王がのる道標もあります。市 内には110基を超える道標がありました。恐らく半数以上は大山道関連と思います。「薬師道(日向薬師)」、「一之沢道(浄発願寺)」と刻まれた市内寺院への道標やかない道(平塚市金目観音)」、「飯山 道 (厚木市飯山観音)」、「ほしのや道(座間市星谷観音)」といった巡礼道が刻まれた道標が多いようです。また、伊勢原や厚木、十日市場(秦野市)といった矢倉沢往還沿いの繁華な町への道案内も多いようです。

道標の中では、庚申塔として造立されたものが一番目立ちます。道中の安全を祈ったものといわれています。

写真の大山灯籠は、石尊灯籠あるいは大山献灯ともいわれ、夏山の時期に大山道沿いや大山が見える所に立てられ、夜には灯が灯されます。現在、伊勢原市内では3カ所ほどで毎夏立てられています。 現在は使われていないようですが、常夜燈にも灯が入りました。北斎の浮世絵のように、夜歩く参詣人も多かったようです。

平成22年3月 伊勢原市教育委員会

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大山道と千石堰用水路



大山道と千石堰用水路

大山道

この道は東海道戸塚からの大山道と江戸青山から厚木を経ての大山道が下糟屋宿で合流した大山参詣道で、夏山祭礼中は大変賑わいました。

地元の人はこの道を「戸田道」「厚木道」「青山道」 と呼んでいました。

千石堰用水路

この用水路は子易明神社の左斜めの大山川から取水して下糟屋の田川へ流れる灌漑用水であります。つくられた年代は定かではありませんが、小田原後北条時代または江戸初期かと思われます。

道標

正面 「上り 大山道」
右側面「下り 戸田道 厚木道」
左側面「寛政十一年 未年六月 当村念仏講中
裏面 「右ハ 田村道 左ハ むら道」と彫られています。

庚申塔

正面に、青面金剛と三猿が彫られています。この庚申塔は道程にもなっています。
右側面「享保六年 辛丑天 奉造立庚申供養」
左側面「□□大山道」と彫られています。

道祖神

悪疫の侵入を防ぐために村境に建てられますが、夫婦和合、出産などの繁栄を願う男女の双体道祖神もあります。

平成二十七年三月吉日

※この説明板は伊勢市市民協事業により建てています。

材料提供 伊勢原市森林組合、製作 アド・おおやまみち

大鳥居で大山の写真を撮り忘れたので
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