心敬塚古墳を再訪。脇に心敬塚の石碑が建立されていた。
心敬塚 (しんけいづか)
連歌中興の祖といわれる心敬は、応永13年(1406)紀伊国に生まれた。幼少のころに出家し、京都東山の十住心院の住持となり、後に権大僧都に至った。正徹に和歌を師事し、『ささめごと』、『老いのくりごと』、『心玉集』、『心敬僧都百句』、『芝草』などの著作を遺した。連歌七賢の一人で、弟子に宗祇がいる。
応仁の乱を避け、関東へ下向し、太田道真・道灌父子と親交を結んだ。文明3年(1471)夏、大山山麓の浄業寺に身を寄せ、同6年には江戸城で開かれた道灌主催の「武州江戸歌合」の判者を務めた。 翌7年4月16日に、当地石蔵にて没した。享年70歳。当地では、心敬が「遠海をみどりによする夏野かな」の一句を詠んだとされる。
大山、江ノ島などの景色を愛でながら、都や故郷を偲んだのであろうか。 地元では古くからこの丘を“心敬塚”と呼び、心敬を祀る地として手厚く護持している。
三の宮高区配水池
三ノ宮低区配水池
伊勢原市No.67遺跡
害獣駆除檻
文献
[1] 相原精次・藤城憲児 2000「神奈川の古墳散歩」彩流社
心敬については太田道灌胴塚の句碑で予習しておいた。