週末は古墳巡り

古墳とは、およそ3世紀から7世紀に築かれた墳丘状の墓のこと。その数、およそ20万基。

太田道灌胴塚 伊勢原市上粕屋

上粕屋・秋山遺跡発掘現場公開の見学した後は、伊勢原市の古墳を巡った。伊勢原市の古墳巡りは、2018年の子易・中川原遺跡の現地説明会の後で、常連さんとご一緒したとき以来で4年振り。最初に訪れたのは古墳ではなく洞昌院の太田道灌の墓(胴塚)。心敬僧都の句碑があり、心敬塚古墳の名前の由来になった心敬について学ぶ。太田道灌と同時代の人と知る。

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雲もなほさだめある世のしぐれ哉 心敬

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句碑建立の由未

京都十住心院の心敬僧都は応永十三(1406)年紀州に生れ 東福寺の正徹に和歌を学び当代第一流の連歌師であった 応仁元仁元年の春関東に下向したが間もなく起った応仁の大乱のため 再び京の地を踏むことなく関東を流浪し相模大山の麓に幽居し 文明七(1475)年四月十二日没した 享年七十歳 心敬の文脈はその弟子宗祇を経て芭蕉にうけつがれる 生前交遊深かった太田道灌公の墓域にその偉業をしのび五百回忌を記念して句碑を建立した 揮毫は川戸飛鴻氏にお願いし 大津清氏の心からなる協力を得た

昭和四十八年四月吉辰 洞昌院現住 大逸 謹誌

石匠 大津石材店

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太田道灌と山吹の花

文武両道にすぐれ、人々から兵法の師範と称された道灌は、若年の頃は武略のみを心がけ、文の道はかえりみなかったと伝えられる。しかし、父の道眞資清は当時和歌の名手として、又、連歌の達者として知られ、馬上に打物取っては並ぶものなき勇者でもあった。

狩りに出た道灌が雨にあい、雨具を借りに立ち寄った賎が家の乙女の差し出した山吹の花の意味が分からず、自ら深く愧じて学問に志した説話は余りにも有名である。関東に生まれ、関東に育った武将の中で、都の文人にも劣らなかった文化人であり、又、江戸の築城に当たっては都市計画の先覚者でもあった道灌の非業の死をいたんで、花が咲いても実とならぬ山吹の花をえらんで、道灌への思慕の情を託したものであろうか。

 みやび男の子の

    道灌さまは

  花も実もある あづま武士

土地の人が歌った、道灌追慕の唄である。

洞昌院 二十七代当主 安達 久雄

伊勢原中央ロータリークラブ創立十周年記念植樹 昭和六十三年五月三十日

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洞昌院(太田道灌の墓)

蟠龍山(ばんりゅうざん)洞昌院(とうしょういん)は、太田道灌(おおたどうかん)が開いたと伝わる曹洞宗のお寺です。太田道灌江戸城築城などで知られる室町時代に活躍した武将で、文武両道の鑑(かがみ)とされています。洞昌院には、太田道灌の墓(市指定文化財)があり、15〜16世紀のものと推定される宝篋印塔(ほうきょういんとう)がまつられています。

文明18年(1486)の太田道灌の最期には様々な伝承がありますが、敵に囲まれた道灌が洞昌院まで逃げ延びたが、門が閉まっており中には入れず、ついに力尽きて刃に倒れたとも言われています。以後、洞昌院には山門に扉をつけてはならないと語り継がれています。

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太田道灌

太田道灌(1432-1486)は幼名を鶴千代といい、成人してか らは資長(すけなが)または特資(もちすけ)といった。また仏門に帰依してからは、道灌と号した。道灌が生れた頃、父資清は相模の粕屋に本拠をおいていたので、道灌は現在の伊勢原市内で生れたものと思われる。幼い頃から非常に利発で、神童といわれていた。当時の日本は戦国時代で、各地の武将の間に戦が絶えなかった。

道灌は25歳の時(1457)、武蔵野の原に、海に臨んで城と町とを築いた。後に、この城は江戸城といい、徳川幕府三百年の居城となった。明治以後、町は東京とよばれ、城は皇居となった。これによ り道灌は、いまでも東京の基礎を築いた人として、その名が高い。

道灌は築城軍略の大家であるばかりでなく、詩歌を好み、風流を愛する文武兼備の人であった。上洛の折、時の天皇の勅問に和歌をもって答えた逸話や、山吹の説話など有名な話も多い。

晩年、道灌は京都の足利幕府と関東の公方とが、互に協力して政治を行なわなければ、平和は望めないと考え、力を尽した。しかし、主君の上杉定正は、己の権力の増大のみを求めていたため、道灌は怒りにふれ、志半にして粕屋の上杉館で謀殺された。時に54歳であった。のりされ道灌の墓のあるここ洞昌院は、道灌が関東管領上杉憲実の弟道悦和尚のため建てた寺と、伝えられている。現在、伊勢原市では、毎年10月の第土日曜日に観光道灌祭を行って、道灌の遺業を偲んでいる。

昭和57年11月3日

伊勢原ライオンズクラブ

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洞昌院 現在地

洞昌院は太田道灌により開かれたとされる寺院で、境内の北西側に所在する道灌の墓と伝わる宝篋 印塔は、道灌の生きた15〜16世紀のものと考えられます。

また、宝篋印塔の前に残る松の枯木は道灌と親交のあった京都相国寺の僧で詩人として名高い万里 集九が、道灌の二十七日忌に植えた 「手向けの松」 と伝えられています。

洞昌院に伝わる話では、道灌が主君である上杉定正の館に呼ばれ、入浴中に定正の命を受けた曽我兵庫らに襲われますが、逃げ延びて洞昌院まで来たところ門が閉まっており中には入れず、力尽きてしまったとのことから、山門に扉をつけてはならないと言い継がれています。近くにある七人塚と呼ばれる塚は、道灌とともに殉じた従者を葬った場所と伝えられています。

太田道灌の墓(洞昌院) | 伊勢原市

文献

[1] 相原精次・藤城憲児 2000「神奈川の古墳散歩」彩流社

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