週末は古墳巡り

古墳とは、およそ3世紀から7世紀に築かれた墳丘状の墓のこと。その数、およそ20万基。

春日部八幡神社 春日部市粕壁

杉戸町八幡神社に続いて、春日部市の春日部八幡神社でも中川低地の河畔砂丘群の浜川戸砂丘を見学した。浜川戸砂丘は、古利根川から分かれた古隅田川の最初の蛇行部に位置しており、比較的小規模な2列の砂丘列が残る。砂丘に隣接する浜川戸遺跡からは、砂丘形成の開始や終了時期を推定できる土器や板石塔婆などが発見されており、砂丘群の成り立ちを考えるうえで、重要な資料として春日部市有形文化財(考古資料)に指定されている。

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春日部八幡神社

所在地 春日部市粕壁5597

新編武蔵風土記稿にも粕壁宿の鎮守として掲載されている春日部八幡神社は、 元弘年中(1331〜1334)この地域の武将であった春日部氏により、鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請したものといわれている。この神社は、春日部氏の領地であった新方領の総鎮守であり、その鳥居には「新方荘惣社」の額が掲げられている。天保11年(1840)の氏子連名帳には、現在の久喜市杉戸町白岡町、宮代町を含む五十二ヵ村の氏子 3,065名を記録している。

本殿後方の高地にある旧本殿は、茅葺き、柱間1.6メートルの流れ造りで、室町期の流れをくむ桃山時代ごろのものと推定され、市内では最も古い建造物として春日部市指定文化財となっている。

参道入口の左側には、嘉永6年(1853)に粕壁宿の名主関根孝熈らが建立した在原業平の故事とこの八幡神社の由緒を伝える石碑がある。

また、参道中央の大イチョウには、元弘(1331〜1334)年間に飛来したイチョウの枝が一夜のうちに成長し、参詣人を驚かせたという伝説がある。

この神社の境内につづく稲荷神社横には、通称「浅間山」と呼ばれる高さ8.2メートル、周囲200メートルにも及ぶ、この辺りでは最も大きな富士塚がある。この富士塚は、江戸時代に隆盛を極めた富士講による富士信仰の対象として築かれたもので、弘化2年(1845)に行なわれた修復工事には、粕壁宿はもとより、幸手領、岩槻領からも大勢の信者が集まったと記録されている。毎年7月1日の初山には、市内各地より赤子を抱いた母親が、子育ての無事を祈ってこの富士塚を訪れている。

昭和61年3月 春日部市

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春日稲荷神社と「中川低地の河畔砂丘群 浜川戸砂丘
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埼玉県指定天然記念物 「中川低地の河畔砂丘群 浜川戸砂丘

榛名山浅間山の火山灰等に由来する大量の砂が平安〜室町時代の寒冷期の強い季節風により、利根川の旧河道沿いに吹き溜められて形成された内陸性の砂丘

長さ 200m、幅 50m の規模で八幡神社と稲荷神社の境内にみることができる。

平成28年3月15日 指定

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春日部八幡神社について | 春日部八幡神社

中川低地の河畔砂丘群 浜川戸砂丘 - 春日部市教育委員会ブログ

浜川戸遺跡出土の板碑 - 春日部市教育委員会ブログ

浜川戸遺跡出土の板石塔婆 - 春日部市教育委員会

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