ここから伊勢原市の古墳巡り。
上粕屋・秋山遺跡発掘現場公開は午前10:30からだったので、その前に、鎧塚古墳群を巡った。小田急伊勢原駅北口から伊23 七沢行きのバスを別れ道バス停で下車して鎧塚古墳群まで約13分歩いた。伊勢原駅北口からだと伊20 日向薬師行きの高部屋小学校前バス停が最寄りだが、駅でモタモタしていて乗り逃した。歩道の上に張り出す鎧塚1号墳が見えて来る。鎧塚1号墳は径21mの円墳。
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道標
鎧塚古墳群
鎧塚古墳群(よろいづかこふんぐん)は、高部屋小学校北方の台地上に現存する6基の古墳からなります。この古墳群については、江戸時代の文献にも記載が見られ、室町時代に山内(やまのうち)上杉と扇谷(おおぎやつ)上杉が戦った実蒔原(さねまきばら)の戦いの戦死者を葬った塚とも言われていました。また、明治23年に畳三畳大の天井石を割ると、中から人骨や武器、玉類が出土したという記録も残っています。
この古墳群に調査の手が入ったのは、昭和63年、市道の拡幅工事に伴う鎧塚第1号墳の発掘調査になります。この調査では第1号墳の石室を確認しましたが、忠魂碑や鎧塚神社の基礎、それ以前の盗掘により、石室の東側大半は既に失われていました。
石室は、遺体を納める玄室が片側へ広くなる片袖式(かたそでしき)の横穴式石室です。玄室の幅は1.6m、長さは4.2m、入口へ続く羨道(せんどう)部分は幅が1mと狭くなります。玄室、羨道を合わせた石室の長さは約8mを測ります。
第1号墳から見つかった遺物は、4振りの直刀、2点の小刀4本の鉄鏃(矢尻)に玉類です。直刀、鉄鏃も折れた状態で出土しています。玉類には瑪瑙(めのう)製、ガラス製の勾玉(まがたま)、緑色凝灰岩(りょくしょくぎょうかいがん)製の管玉(くだたま)、ガラス製の丸玉があります。大きな石室にしては副葬品が少ないのは、過去の盗掘等で掘り出されたことによるものと考えられます。
周溝(しゅうこう)は、最大幅3.2m、深さ70cmでほぼ円形にめぐります。墳丘は周溝の内側で直径21mを測り、約3mの盛り土により周囲からは4mほど高い塚となっていたと推定されます。
これらの調査から、第1号墳は古墳時代後期の6世紀の終り頃に築かれた円墳と考えられます。その規模は周囲上空から見た調査当時の鎧塚古墳群の古墳と比較しても群を抜いた存在だったことが分かります。伊勢原市では墳丘を削る計画を変更し、歩道部分をトンネルにして石室を保存しています。
周囲に分布する5基の古墳については、未だ調査は実施されていません。 現状では互いに20〜40mの距離をおいて点在し、直径3〜5m、高さ1〜2mほどの塚となっています。
よろい塚
明治14年、道路の拡幅工事を行っていた当時の西富岡村の住民66名はよろい塚古墳の蓋の石が露出して、 玄室 (棺を納める室) が壊れそうなのでこれを修理し、古墳に使われていた巨石を「よろい塚神社」の御神体として祀ったそうです。木造社殿は、昭和初期に崩れ失われ、御神体も土に埋もれ頭部刻字の「よろい塚」のみ地表にあって「よろい塚」の碑と呼ばれるようになったそうです。
神奈川県 自然環境保全センター自然保護公園部自然公園課
文献
[1] 鎧塚古墳発掘調査団 1991 『伊勢原市文化財調査報告書16:鎧塚古墳群第1号墳発掘調査報告書』伊勢原市教育委員会
[2] 相原精次・藤城憲児 2000「神奈川の古墳散歩」彩流社
関東ふれあいの道って、一都六県、総延長約1,800キロメートル、自然歩道なんだって。踏破するとなんかもらえるみたい。https://t.co/hI6QVnStje pic.twitter.com/ju4tVaGTEX
— ぶじん(挂甲の武人) (@kufunmeguri9) 2023年2月13日
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