週末は古墳巡り

古墳とは、およそ3世紀から7世紀に築かれた墳丘状の墓のこと。その数、およそ20万基。

埒免古墳 (再訪) 伊勢原市三ノ宮

埒免(らちめん)古墳を再訪。

正面に2005年に閉鎖恵泉短大伊勢原キャンパスの校舎が見える
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齋藤家住宅
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齋藤家住宅 | 伊勢原市

松山古墳
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この先元宮
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埒免古墳
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埒免(ちちめん)古墳

埒免古墳は昭和三十九年に建物の建設中に発見されました。その際、石室内から飾り大刀や鏡、金を貼った馬具など見事な副葬品が出土しました。それらはまさに、相模の最高権力者にふさわしい内容を備えており、伊勢原市指定重要文化財に指定されています。これらは現在、三之宮比々多神社の郷土博物館で目にすることができます。江戸時代の末に編さんされた「新編相模国風土記稿」によると、この地は、戦国時代以前の三之宮比々多神社があった場所であり、「埒免」と呼ばれていたと記されています。このことから、この古墳も埒免古墳と呼ばれることになったと考えられます。

その後、平成十二年からの建物の建て替えに伴う発掘調査や平成十四年の石室の再調査などで、墳丘、石室の規模、構造が明らかになり、当地域における埒免古墳の存在は古墳時代後期の相模を知る上で、ますます重要性が高くなってきています。

平成十七年三月 伊勢原市教育委員会

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埒免古墳の横穴式石室

所在地 伊勢原市三ノ宮字宮ノ上一、四二三番地

平成十四年二月に伊勢原市教育委員会は、東海大学考古学研究室の協力を得て、この石室の再調査を実施しました。その結果、石室は南東側に入口をもつ横穴式石室と呼ばれる構造で、遺体を納める部屋(玄室)は北東側に張り出した片袖式という形態であ ることが分かりました。

石室は、幅二メートル、長さ四・八メートルの玄室とそれに続く幅一メートル、長さ四メートル程の入口部分(道)からなります。石室は巨大な石を組み上げて造られており、玄室の正面奥に使われている最大の石は、縦、横ニメートルを越す大きさです。現在の石室は半分以上が埋め戻されていますが、本来は周回の石積みの上に巨な天井石がのり、内部でも一・七〜一・八メートルの高さがあったと考えられます。

また、これより以前の建物の建て替え時の調査では、石室を覆うウマウンドの周囲に巡る大きな溝の跡が見つかっています。それによると埒免古墳の墳丘の大きさは直径四〇メートルとなり、石室とともに古墳時代後期としては地域最大の規模となります。

さらに、当古墳の出土資料の内容は、銀装の大刀、金を貼った鞍や轡などの馬具、銅製の鏡とい ずれも貴重なものばかりです。相模地方の中でこの内に匹敵する副葬品をもっ古墳といえば、南側に見える尾根上に位置する尾根上に位置する登尾山古墳以外には見当たりません。つまり、両者には六世紀後半から七世紀にかけて当地域を治めた最高権力者が葬られていると考えられています。

平成十七年三月 伊勢原市教育委員会

 


古墳時代 | 伊勢原市

埒免古墳出土品 | 伊勢原市

文献

[1] 相原精次・藤城憲児 2000「神奈川の古墳散歩」彩流社





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