週末は古墳巡り

古墳とは、およそ3世紀から7世紀に築かれた墳丘状の墓のこと。その数、およそ20万基。

箕田9号墳(宮登古墳) (再訪) 鴻巣市宮前

5年ぶりに箕田古墳群を再訪。

箕田9号墳(宮登古墳)。

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宮登神社 御由緒 鴻巣市宮前七九

御縁起 (歴史)

宮前村の村名は、村の西端に鎮座する聖権現(ひじりごんげん)社の前に開けた村であったことに由来する。この聖権現社が江戸期の当社の社号であった。

聖権現社の由緒は、『風土記稿』宮前村の神社の頃に「聖権現社 村の鎮守なり、天長年間(824-34)紀州高野山の僧当所光徳寺を開基せしゆへ彼聖を崇てかく祀ると云、光徳寺持、末社に弁天庚申の二社あり」と ある。この光徳寺は、真言宗聖山不動院と号し、開山の高野聖の僧源楽は、天長2年(825)10月2日の示寂(じじゃく)とされる。高野聖とは、高野山を本拠として、阿弥陀真言を唱え、高野山の因縁を語って勧進をしながら回国する下級の僧侶をいうが、その聖を祭神として祀った理由として、当社 『明細帳』に「淳和天皇ノ皇子源楽上人ヲ祭リ」とあり、源楽上人の貴種流寓による縁を尊んだ村人の心の表れであったようである。ただし、淳和天皇の皇子の中で源楽上人に該当する人物が実在したかは不明な上、別当の光徳寺が火災により旧記を失っているために詳細は不明である。

明治2年神仏分離政策に伴い、仏教色の強い社号を改めるため、隣接する箕田村の八幡社の分霊を勧請し、八幡社と改称した。併せて祭神の源楽上人を道主貴之神(宗像三女神)に改め、村社となった。更に同40年、大字登戸と当地内に鎮座していた六社を当地に合祀したことから、 宮前と登戸の頭文字を採り、社号を宮登神社に改めた。

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鴻巣市指定史跡 昭和45年3月10日指定

宮登古墳(箕田九号墳)

箕田古墳群は、荒川に面する大宮台地の西側縁辺部に位置しており、宮登古墳はそのうちの一基である。

墳丘の保存状態は比較的良好で、直径25m、高さ19m程の円墳である。昭和34年に埋葬部の発掘調査が行われており、それによると主体部は、角閃石安山岩を使用した胴張り型横穴式石室で、玄室の長さは2.9m、奥壁幅1.3m、高さ1.65mであった。

玄室から、須恵器 (はそう)・鉄鏃・水晶製の切子玉・管玉・ 丸玉などが出土しており、これらの遺物から七世紀の前半〜中頃に築かれた古墳と考えられる。また、埴輪類は認められておらず、埴輪樹立の風習が行われなくなった 以後の築造であろう。

なお、石室に使われた角閃石安山岩は、群馬県榛名山二ツ岳の爆発によりできた岩石で、利根川流域に分布する。本墳を作った人々は利根川からわざわざこの岩石を運んだのである。

参考:昭和34年(1959)

令和3年3月 鴻巣市教育委員会

箕田古墳群を再訪した後で、宮前遺跡見学会に参加した。

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