週末は古墳巡り

古墳とは、およそ3世紀から7世紀に築かれた墳丘状の墓のこと。その数、およそ20万基。

箕田2号墳(三士塚) (再訪) 鴻巣市箕田

宮前遺跡見学会の予約した時間まで、まだあったので5年ぶりに箕田古墳群を再訪した。

箕田2号墳

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鴻巣市指定文化財(史跡) 箕田古墳群 (みだこふんぐん) 昭和45年3月10日指定

箕田古墳群は大宮台地の北端部、通称箕田台地と呼ばれる台地上にある。

古墳群は、標高16〜18メートルの地点に、幅約600メートル、長さ1000メートルの広い範囲に亘って散在している。

古墳の分布から、宮前支群、富士山支群、龍泉寺支群、稲荷腰支群、追分支群の五つに分けられる。

これまでに9基の古墳の所在が知られているものの、現在は1、3号墳が消滅しているため、わずかに7基の古墳が残っているのみである。

周辺付近一帯から埴輪片が採集される事実からすると往時は相当数の古墳が存在していたものと思われ、鴻巣市では生出塚古墳群と並んで最も多くの古墳が密集していた地域である。

『新編武蔵風土記稿』の記述が古墳群に関する最古のものである。

昭和3年に柴田常恵氏によって7号墳の発掘調査が科学的調査の最初で、続けて2、3、9号墳(宮登古墳)で実施されている。

須恵器有蓋高坏・𤭯(はそう)・埴輪・金環・切子玉・丸玉・鉄鏃等が発見されているが、9号墳は埴輪を伴っていなかったことが調査により明らかとなっている。

これらの発掘調査の成果によって、箕田古墳群は、6世紀初頭から7世紀中葉に至るまでの約150年間に亘って築造されたことが判明している。

箕田二号墳 昭和45年3月10日指定

本墳の現状は直径23メートル、高さ2.7メートルを測る円墳である。墳頂に氷川神社があるため墳形は若干変形しているものの、全体として保存状態は良好である。

昭和58年(1984)の発掘調査によって、墳丘を巡る周溝が確認され、そこから築造当時は直径32メートルの規模で箕田古墳群の中でも、箕田3号墳に次ぐ大きさであったことが明らかになった。

また、周溝内より須恵器有蓋高坏・甕の破片及び埴輪片が検出されており、本墳は6世紀後葉に築造されたものであることが判明している。

なお、本墳の南側一帯は、箕田館の推定地であることから、『武蔵国郡村誌』には、武蔵守源仕及び妻子の墓とする古記述がある。しかし、源仕の活躍した年代と築造年代には大きな隔たりがあり、これは後世に古墳と館とが結びついて伝承されたものであろう。

また、同誌では本墳を「三士塚(さんし)」と呼んでいる。

平成24年2月 鴻巣市教育委員会

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