週末は古墳巡り

古墳とは、およそ3世紀から7世紀に築かれた墳丘状の墓のこと。その数、およそ20万基。

飯積遺跡 加須市飯積

板倉町大高嶋の大塚山古墳と稲荷神社古墳から南南東に約2km、利根川左岸の合の川スーパー堤防の下に、古墳時代の村が眠っていると知り訪れた。合の川河川防災センター、合の川防水センターの脇に「飯積(いいずみ)遺跡の地」の碑と、産業遺産として「ゐのくち式両吸込渦巻ポンプ」が展示保存されている。

合の川河川防災センター、合の川防水センター
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飯積遺跡の地
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飯積遺跡の地

今から1500年前、大洪水を克服し再びよみがえった不屈の村が、ここ合の川スーパー堤防の下に眠っています。

この飯積遺跡は、行田市の埼玉古墳群がつくられた古墳時代(1550年前ごろ)から、都が京都に移った平安時代(1150年前ごろ)までの400年間にわたって営まれた農村でした。

農村といってもただの農村ではなく、古代河川交通の中心地として富み栄えた、豊かな村だったのです。発掘調査で出土したおびただしい土器は、その証拠です。群馬県東部、栃木県南部、茨城県西部、千葉県北部の土器があり、各地の人々が飯積遺跡を訪れ、また飯積遺跡の人々が各地へ赴いたあかしといえます。

しかし、この村に悲劇が訪れます。大洪水が村を襲ったのです。この洪水は、群馬県榛名山の噴火で降った火山灰が永年のうちに川をせき止め、台風などをきっかけにおこったのでした。洪水は、飯積遺跡をのみ込み、北側の沼を砂で埋めつくしました。この沼は、豊かな実りを祈った大切な祭りの場でした。それは、小さな土器やお供え物用の土器、大きな壺が、沼の底から出土したことでわかりました。

けれども、人々はうずもれ た砂をかきあげ、前にも増して豊かな村を再生したのです。その復興には、埼玉古墳群を造った豪族の支援もかかせませんでした。そして、ついに飯積遺跡に竪穴住居が、244軒も折り重なるように建てられたのです。

飯積遺跡は、埼玉県の重要遺跡に指定されています。

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ゐのくち式両吸込渦巻ポンプ
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現存する最古の国産ポンプ「ゐのくち式両吸込渦巻ポンプ」

明治38年(1905年)、東京帝国大学の井口教授が発表した渦巻ポンプに関する理論は、外国の工業雑誌等においても紹介され、世界中で注目を集めました。その後、井口教授の教え子である畠山氏は、大正元年(1912年)に「ゐのくち式機械事務所」(現:(株)荏原製作所)を創設し、実用機を製作しました。

昭和23年(1948年)に完成した谷田川第一排水機場(板倉町海老瀬)は、このゐのくち式両吸込渦巻ポンプが採用されました。大容量で吸込み性能に優れ高効率である特性を活かし、谷田川の洪水を排水し地域の水害防除に活躍しました。

平成23年(2011年)3月時点では、国の運用している排水機場ポンプでは最古のものとなりましたが、腐食や歪みが深刻で、維持管理が困難となり、新しい排水機場へ役目を移すこととなりました。

利根川渡良瀬川に挟まれ、標高が低く排水が難しいこの地域を、終戦直後から、64年間の長きにわたり水害から守ってきたこのポンプは、その役割は終えましたが、水害防除の歴史や大切さを後世に伝える産業遺産として歴史的価値も高く、ここに展示し、残すものとしました。

平成25年3月 利根川上流河川事務所 板倉町

 

周辺地域を谷田川の水害から守る排水機場

谷田川は群馬県邑楽郡千代田町にその水源があり、渡良瀬遊水地流入する流域面積88km²、流路延長20.3kmの一級河川です。

流域は、利根川渡良瀬川の堤防に囲まれた低平地で、洪水時には流域の雨水を自然流下では排水できないことから、流域の各所で湛水(たんすい)が発生し、過去幾度となく浸水被害に見舞われてきました。

このため、流域に配置された複数の排水機場により利根川渡良瀬遊水地に強制排水を行うことで浸水被害を防ぎ、様々な土地利用を可能にしています。

筑波山
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利根川
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利根川上流管内 河川防災ステーション、合の川河川防災ステーション
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あとで気がついたが、センターの西側は旧河道で、群馬県板倉町と埼玉県加須市の県境。この時は利根川左岸を下ったら群馬県から埼玉県に越境していたので驚いた。あとで考えれば、以前訪れた3県境が群馬県板倉町と埼玉県加須市と栃木県栃木市の県境で、利根川左岸の渡良瀬遊水地の脇にあった。そこに「明治43年(1900)から着手された渡良瀬川の改修工事で、その河道は現在の流路に変えられました。また、谷田川も渡良瀬川の改修工事で一部河道を変えることになりました。そのため旧河道は『廃川』となり、その後谷中湖の造成工事により発生した土砂で埋め立て(約2m)られ耕作地に整備され、平地の3県境となりました。」と説明があった。

文献

[1] 埼玉県埋蔵文化財調査事業団 2007 『埼玉県埋蔵文化財調査事業団報告書 333:飯積遺跡』埼玉県埋蔵文化財調査事業団

[2] 埼玉県埋蔵文化財調査事業団 2007 『埼玉県埋蔵文化財調査事業団報告書 334:飯積遺跡』埼玉県埋蔵文化財調査事業団

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