週末は古墳巡り

古墳とは、およそ3世紀から7世紀に築かれた墳丘状の墓のこと。その数、およそ20万基。

筑波山古墳 板倉町岩田

利根川左岸の古墳巡りの続き。明和町斗合田から谷田川を渡った北側、 谷田川左岸の低台地縁辺に築造された筑波山古墳。板倉町によると「全長53.5mの前方後円墳。墳丘上に筑波山神社を祀る。豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の曾孫御諸別王(みもろわけのおう)を埋葬したとも、藤原小黒麿を埋葬したとも伝わる。昭和8年12月に古墳丘上を社地拡張のため整地のおりに石室より武人の武具一式が出土し、再び埋葬したおりに耕地に災難をこうむることを恐れて霊峰筑波山神社を勧請(かんじょう)・合祀し、以後社名を筑波山神社と改称。」

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板倉町指定史跡・重要文化財 筑波山古墳と石室石材および副葬品

【指定日】昭和44年5月29日(筑波山古墳) 平成14年6月26日(石室石材および副葬品)

【所在地】板倉町大字岩田風張2498

【所有者】筑波山神社

古墳の全長は53.5m、周堀を含めると70.8mあります。後円部の直径は36m、前方部の幅は約36.5mの前方後円墳です。町内で最大の規模を誇り、原形をもっとも保っています。

昭和8年、墳頂部に社を造る際に横穴式石室が見つかっています。石室の形は胴張り型で馬蹄形をしていたことが、館林市赤羽の郷土史家飯塚多右衛門氏の写真からわかります。

石室の壁は榛名山二ツ岳噴出の軽石(浮石質角閃石安山岩)で築いています。軽石利根川(現在の谷田川)を流れてきた河原石を面取りして、積みやすく加工したものです。天井石は旗川流域(佐野市出流原)から截(き)り出してきた石灰岩です。

副葬品は銀象嵌円頭大刀、直刀、鉄鏃、金銅製耳環9個、瑪瑙製曲玉2個、水晶製切子玉9個、馬具などがあります。円頭の大刀の柄頭には亀甲文の中に鳳凰文を、そして鍔には「C」字文の銀象嵌が施されています。

このように石室を築いていた石材などから筑波山古墳の被葬者の勢力範囲は利根川中流域から佐野市までの広がりをも つと考えられます。

築造時期は出土遺物などから6世紀後半に位置づけられます。

平成16年3月

板倉町教育委員会

このあとで訪れた加須市飯積の飯積遺跡の地から筑波山が一望できた。

永明寺古墳保存活用計画(改訂版)」(令和2年5月、羽生市教育委員会)によると「利根川の北に位置する邑楽台地では前方後円墳板倉町舟山古墳(全長66m)、板倉町筑波山古墳(全長54m)、円墳の館林市渕ノ上古墳(径30m)が存在します。いずれも角閃石安山岩を用いた胴張の横穴式石室を有しており、6世紀後半の築造と推定されています。筑波山古墳からは、銀象嵌亀甲繁鳳凰文円頭大刀(ぎんぞうがんきっこうつなぎほうおうもんえんとうたち)、玉類などが出土し、渕ノ上古墳からは直刀、鉄鏃、馬具、埴輪などが出土しています。この古墳群から出土した埴輪は、蛍光X線分析の結果、群馬県太田市金山から供給されたものであること が判明しています(車崎2011)。」

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筑波山古墳の出土品は板倉町文化財資料館に展示されているとのこと。

文献

[1] 青木繁夫 1987「筑波山古墳出土鉄製品の錆の安定化処理関する研究保存科学第26号 東京文化財研究所 保存科学研究センター

[2] 車崎正彦 2011「第2章館林の古墳」『館林の遺跡と古代史 館林市史』資料編1 原始古代 館林市

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