週末は古墳巡り

古墳とは、およそ3世紀から7世紀に築かれた墳丘状の墓のこと。その数、およそ20万基。

英国大使館 千代田区一番町

英国大使館の付近を散策した。

英国大使館



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サトウ公使植桜の地

サトウ公使植桜の地

アーネスト・サトウ(1843〜1929)はイ ギリス出身の外交官です。幕末に通訳官・書記官として来日し、流暢な日本語を生かして討幕派だけでなく佐幕派とも広い交友関係を作りました。明治維新後、1870年(明治3年)に東京のイギリス公使館に赴任し、その後、バンコクやモロッコなどで公使を務め、1895年から1900年(明治28年〜33年)には日本公使に任じられました。

1898年、サトウは英国公使館(現在の英国 大使館)前の空地に桜の木を植え、東京府に寄付しました。のちに、それが見事な桜並木となり多くの人々に親しまれました。

サトウの植えた桜は戦災等で枯れてしまいましたが、戦後再び付近に桜の木が植えられ、新たな桜の名所となっています。

千代田区

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皇居外苑半蔵門園地
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ウィリアム王子が植樹した桜『太白』
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ウィリアム王子が植樹した桜『太白』

この桜は2015年、ケンブリッジ公爵ウィリアム王子が来日された際に植樹された『太白』(英名: グレートホワイト)という桜です。日英友好・協力の記念として寄贈され 2023年の開園にあわせて移植されました。

『太白』は非常に珍しく、20世紀初頭、絶滅したかのように考えられていました。1926年、日本を訪れた英国の植物学者コリングウッド・ “チェリー”・イングラムは、珍しい老樹の絵を目にし、英国の庭園にある桜と同じ品種と気づき、後に同氏が様々な苦難を乗り越えて『太白』を里帰りさせた功績により、日本各地で見られるようになりました。『太白』は春に白色の一重咲の花を咲かせます。桜の中でも最大級の花弁を持ち、花径は5cm以上の大輪となります。花弁はしわ状にうねり、先端に細かい切れ込みがあります。

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イギリス積みの煉瓦塀(外壁)の一分
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駐日英国大使館跡地

日英の正式な国交樹立に伴い、日本における初の英国の常駐外交使節として、1858年に港区高輪の東禅寺に「駐日英国公使館」が設置されました。幕末期(1853-1869年)の混乱が続く中、度重なる移転が行われましたが、1872年に公使館の一番町への移転に両政府が合意、1875年に現在の場所に移転し、1905年には大使館へと昇格しました。

初代の赤レンガ造りの建物が1923年の関東大震災で倒壊したことを受け、今も残る駐日英国大使公邸及び本館に加え、既に取り壊された旧職員宿舎が1929年から1932年にかけて再建されました。これらの建物は第二次世界大戦中もほぼ被災せずにその姿を留めています。大使館は国交断絶により一時閉鎖されますが、1952年のサンフランシスコ講和条約の発効を受け、大使館として正式に復帰し、現在も一番町の地で活動を続けています。

2015年、駐日英国大使館敷地の5分の1が日本政府に返還され、同敷地は環境省によって国民公園として整備されることとなりま した。同公園は、日英両国間で続く交流と友好を象徴づけることが期待され、公園内には当時の外壁の一部が保存されています。

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英国大使館の敷地は日本の国有地で、明治5年(1872年)、時の外務卿副島種臣が「英国公使館地所證書」を交付して、貸付を始めました。幕末の七戸藩、櫛羅藩、七日市藩の上屋敷と、旗本水野兵部の屋敷跡を合わせた約35000平方メートルです。

平成27年(2015年)、日本と英国のあいだで底地所有権と借地権との交換契約が結ばれて、現在は約7000平方メートルが日本の国有地、約28000平方メートルが英国所有権地となっています。日本に返還された大使館敷地の一部については、今後、環境省において国民公園(皇居外苑)として整備され、皇居西側の緑地等と一体になるように活用される予定です。

なお、契約締結に先立って、英国のケンブリッジ公爵は、初訪日の際、このたびの返還地に英国生まれの品種である太白桜の木を植樹されています。

現在、番町界隈には、英国大使館(一番町)をはじめ、パラグアイ共和国大使館(一番町)、インド大使館(九段南2丁目)、ベルギー王国大使館(二番町)、イスラエル大使館(二番町)、ローマ法王庁大使館(三番町)、ルクセンブルグ大使館(四番町)が点在します。

海嶽楼跡(かいがくろうあと)

海嶽楼跡(かいがくろうあと)

1865年(慶応元年)、幕末の儒学者安井息軒(やすいそっけん)は半蔵門外の旗本伊庭(いば)家の屋敷に居を構え、西に富嶽(富士山)を望み、東に金杉(かなすぎ)の海が見る所から、海嶽楼(かいがくろう)と名付けました。

息軒は日向飫肥(ひゅうがおび)藩(現在の宮崎県)の藩士の子として生まれ、1819年(文政2年)に大坂に出て儒学者の篠崎小竹(しのざきしょうちく)の弟子となりました。 1824年(文政7年)江戸に出て昌平坂学問所に入り、儒学者の松崎慊堂(まつざきこうどう)に師事します。1839年(天保10年)、袋二番町(現在の千代田区一番町)に三計塾(さんけいじゅく)を開き、次世代を担う優れた人材を数多く輩出しました。1861年(文久元年)には、幕府に召し出されて儒官に任じられています。飫肥と東京にて門弟教育に力を注いだ息軒は、1876年(明治9 年)東京で亡くなりました。

なお海嶽楼は、1868年(明治元年)の火災によって残念ながら焼失してしまいました。


英国大使館の裏の「5番町の谷」に降りる坂
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