浄誓寺(じょうせいじ)
幸手市神明内1469
通光山平親院浄誓寺と称し、浄土真宗の寺で、本尊は阿弥陀如来です。本堂裏手には平将門の首塚があります。院号の平親院は、この将門に由来するものと考えられます。さらに寺伝では、境内の薬師堂の薬師如来像は、平親院の本尊で三代目の久信が祀ったとしています。茨城県岩井市には、平将門の守り本尊という薬師如来が存在することから、これも将門と当寺との関わりを示しています。
創立は慶長九年(1604)十月、開基は久念です。久念は広川民部通光といい、和泉国堺(大阪府堺市)で生まれた浄土真宗の門徒でした。戦国時代の織田信長と石山本願寺との戦いにも参加していましたが、両者の和睦により関東に下ります。
縁あって当地の草庵にたどりつくと、勧められて堂守となり、荒れ地を開墾し農業に専念します。生活を安定させた久念は、堺に戻って妻子を呼び寄せ、ここを安住の地と定めたのです。しかし、ここには浄土真宗の寺院がなかったため、入道して浄誓寺を開きました。
なお、妻の静代は、寺伝によると雑賀衆の鈴木孫一の妹です。 雑賀衆もまた、石山本願寺合戦では鉄砲を武器に信長に抗戦した門徒です。
埼玉県においては、浄土真宗の寺院が非常に少なく、江戸幕府が編さんした地誌『新編武蔵風土記稿』では、十一か寺を数えるにすぎません。このうち、五か寺が幸手市域にあり、浄誓寺もその一つです。なお、明暦三年(1657)四月には、浄誓寺四代目の了山に飛檐出仕の寺格が免許されています。
江戸時代の神明内村には、このほかにも願泉寺と西教寺という浄土真宗の寺院がありました。願泉寺は、寺伝によると浄誓寺七代目の子が創立しています。また、西教寺は、浄誓寺の末寺で、創立は寛永十八年(1641)十月、開山は了圓と『新編武蔵風土記稿』にあります。
所在 幸手市神明内1470-1
指定 昭和五十八年三月二十四日
浄誓寺の本堂裏手境内に高さ3m程の塚があり、頂に風化した五輪塔が立っています。一部は後世のものですが、最下部の「地輪」とその上の「水輪」は、江戸時代以前のもので、埼玉県教育委員会発行の『中世石遺物調査報告書』では、その形態から「北葛飾郡内最古の五輪の可能性が高い」と評価されています。このように首塚の五輪塔は、平将門と関連する時代の遺物であろうと推測ができます。
この塚には、天慶三年(940)の天慶の乱で、平貞盛藤原秀郷等の連合軍と幸手で最後の一戦を交え、討ち死した将門の首が埋められたと伝えられています。また、戦死した将門の首を愛馬がくわえて当地まで運び、村人か家来が埋めた塚だという伝承もあります。
「首塚の存在とともに、市域には将門にかかわる伝承が残されています。そうした伝承を郷土史家の峰喜代子氏(故人)は、次のようにまとめています。
・平将門を祀る「平親院」というお寺(浄誓寺)がある。
・平須賀の小字「赤木」は、将門が首を討たれたとき、その血が木を染めたことに由来する。
・将門を討った藤原秀郷ゆかりの軍配や将門調伏の祈禱に使ったという「松虫鈴」が平須賀の宝聖寺に伝えられている。
・当地に桔梗が育たないのは、愛妾 「桔梗の前」の裏切りによって討たれた将門のうらみ、たたりによる、など。
この塚が将門の首塚とする伝承の起源を示す資料に水野隠岐守勝長の家老・水野織部が元禄十六年(1703)に記した『結城使行』があります。 ここでは、江戸から日光道中を北上し、上高野村に差しかかった水野織部が、「ここから一里(約4m) ほど東北の「しく打」(神明内)という村に平親王将門の墓所があるという。また、木立という所は、将門滅亡後に子孫が隠れ住んだとして「公達村」と書く」(原文意訳)と記しています。ここから、神明内の平将門の伝承が、今から三〇〇年以上前の元禄時代に、すでに知られていた古い伝承だとわかります。
平安時代の平将門と、幸手との具体的な関わりはよくわかっていません。しかし、江戸時代の初めまでの市域は、将門と関係の深い「下総国猿島郡」に所属していました。 いわば、同じ郡内で活躍した人物が平将門であったということです。