考古資料館の開館時間前に到着したので、上高津貝塚ふるさと歴史の広場を5年ぶりにぐるっと一回り。
国指定史跡 上高津貝塚ふるさと歴史の広場
この広場は、縄文時代の人たちがつくった「貝塚」をとおして、今の私たちの生活を考えてみるために整備したものです。この史跡整備は、今までに行われた発掘調査をはじめ、いろいろな調査によって分かったことをもとにして、文化庁などの指導をもとに行っています。
ここにある復元された住居や生活のあとは、貝塚のつくられた縄文時代のほんの一部分なのですが、ここを訪れられたみなさまの心の中に、何か大切なものを残してくれるものと思います。
この広場に来てくださったみなさまへ
この広場は、縄文時代の人たちが私たちに残してくれた宝物です。広場の中の施設や展示物を大切にしましょう。
国指定史跡 上高津貝塚
1. 所在地 茨城県土浦市大字上高津字貝塚・ 柿久保、 大字宍塚字吉久保地内
2. 時代 今からおよそ3,000〜4,000年前(縄文時代後・晩期)
3. 今までの経過
上高津貝塚は、1906年(明治39年)に大衆小説家江見水蔭によって発掘されてから、考古学の世界に知られるようになりました。その後、1968〜1971年にかけて慶応大学・東京大学により継続的な調査が行なわれ、土器、石器、土偶など多くの貴重な資料が発見されました。 その後、1977年に国の史跡指定を受け、台地から斜面部にかけての約4.4ヘクタールが国指定史跡となっています。 そして、永年にわたり地元住民の耕作地として保存されてきた貝塚は、1981〜1986年に市が指定地を購入し、1991〜1995年にかけて文化庁などの補助を受けて現在のように整備されました。
4. 上高津貝塚の特徴
上高津貝塚は、まわりを小さな谷に囲まれた台地の縁にA・B・C・Dの四つの貝塚が丸く並んでいる特徴的な形をしています。広さが4.4ヘクタールもあり、千葉県の加曽利貝塚や茨城県美浦村の陸平貝塚とならんで全国でも有数な大きな貝塚の一つです。貝塚は、縄文時代の人々のゴミ捨て場とも言われていますが、上高津貝塚のような大きな貝塚は、干し貝を大量に作る加工場だったのではないかとも考えられています。貝のとれない内陸の人たちとの物々交換に使われていたのでしょうか。貝塚からは、ヤマトシジミやハマグリなどの貝がら、マダイ、クロダイ、スズキなどの魚の骨がたくさん出土します。マダイを除いた多くの魚は河口近くでとれるものであり当時霞ヶ浦が太平洋につながる内海であったことがわかります。波静かな入り江をのぞむ上高津貝塚は、貝や魚をとるには絶好の自然環境にあったと言えるでしょう。
資料館
上高津ジオサイト 筑波山地域ジオパーク 霞ヶ浦ゾーン|地形・地質サイト
縄文海進の証拠 貝塚
地球は約10万年周期で寒い時期(氷期)と暖かい時期(間氷期)を繰り返しています。氷期には陸地に降った雪が氷河となって地上に残るため、海水が減って海面が下がります。一方、間氷期には氷河が融けて海水が増えるため、海面が上昇します。約1万2千年前、最終氷期が終わって温暖化が始まると、それまで陸地だったところに海が入り込み、霞ヶ浦は入り江となりました。そして、海を臨む台地上には、貝塚が多く残されています。貝塚は縄文人が食べた貝が堆積したものであり、貝塚を構成する汽水や海の貝は、霞ヶ浦が当時、海だったことを示しています。
●上高津貝塚 (現在地)
桜川右岸の台地上に立地する、縄文時代後晩期の貝塚です。貝塚は汽水産のヤマトシジミなどからなり、貝塚周辺の低地が、当時海だった霞ヶ浦に流れ込む桜川の河口であったことを示しています。広場では復元建物や貝層断面を、考古資料館では出土遺物からみた縄文時代の暮らしを学ぶことができます。
上高津ジオサイトの地形
上高津貝塚が立地する台地は、約13〜12万年前の間氷期に海だったところが、陸地化したものです。一方、宍塚大池が作られた谷は、現在の桜川の流路に古鬼怒川が流れていた約3万年前以前に台地が侵食されてできました。その後、古鬼怒川が流路変更したために侵食がとまり、古い谷地形がよく保存されています。
【#上高津貝塚ふるさと歴史の広場 #桜 #開花状況】
— 土浦の文化施設情報(つちカル4)【土浦市公式】 (@tsuchiura_cul4) 2023年3月29日
令和5年3月29日9時頃
満開
ようやく晴れましたね!散っているところもちらほら。#土浦の桜 #ソメイヨシノ #春 pic.twitter.com/qGHhqiYhif
裏に雲母片岩(筑波石)が積まれていた。古墳出土の石材?