「貝塚周辺の文化財を歩く会」で訪れた般若寺(はんにゃじ)は、見どころ満載だった。本堂で住職にお話をうかがった。寺伝によれば、天暦元年(947年)平将門の次男将氏の娘、安寿姫(如蔵尼)様により尼寺として創建。鎌倉時代に北条氏の保護を受け七堂がらん、五重塔のある寺院として栄えたとのこと。「般若寺 三人の高僧」というパンフレットをいただいたがなかなか難しい。三人の高僧とは、建長4年(1252年)に関東に下り、現在のつくば市宝篋山の麓の三村山清冷院極楽寺を拠点に律宗布教に努めた良観房忍性(にんしょう)様と、般若寺の長老として止住した源海(げんかい)様。もう一人は? 二人が修行した西大寺(南都西大寺、奈良市)の叡尊(えいそん、えいぞん)様のことか。
本尊の木造釈迦如来立像は、県指定文化財(鎌倉〜南北朝時代)。
2基の結界石のうち1基、もう1基は県指定文化財で土浦市立博物館に寄託・展示されている。結界石の左は大日如来坐像。このユーモラスな石仏は、つくば市の吉瀬東1号墳の大日如来石仏と同じ作風。吉瀬東古墳群がある鹿嶋神社は般若寺から西に約900m。この地域で流行ったらしい。
銅鐘(国指定重要文化財、鎌倉時代)、「大日本國常州信太庄般若寺 建治元年乙亥八月廿七日乙丑時正第二 大勧進源海 願以此功徳 普及於一切 我等輿衆生 皆共成佛道 大工 丹治久友 大工 千門重延」の銘、建治元年(1275年)は最初の蒙古襲来(元寇、文永の役)の翌年。
般若寺の文化財
般若寺(はんにゃじ)は、寺伝によれば平安時代の天暦元年(947)平将門の次女又は孫娘の安寿姫(如蔵尼)により宍塚の台地に創建され、平安末期にこの地に移されたという。
鎌倉時代にはこの地が小田氏領から北条氏領となり、それらの保護を受けたと考えられる。またこの時期には、奈良西大寺の律宗僧忍性(良観上人)が常陸国三村山極楽寺(つくば市小田)に来住し、般若寺も律宗寺院として栄えた。戦国時代には戦火にかかり堂塔を失ったが、江戸時代には土浦地域出身の三島検校が江戸護国寺の観音堂を移築して寄進した。(老朽化により昭和52年(1977)解体)
現在伝えられる文化財の多くが鎌倉時代に作られたものであり、そのすぐれた美しさと共に、かつ ての寺格と寺勢をうかがわせる。
国指定重要文化財 工芸品 銅鐘 指定 大正9年(1920)8月16日
建治元年(1276)源海上人が大勧進となり、河内国出身の丹治久友と地元の人と推定される千門重延が鋳造した。 常陸三古鐘(土浦市等覚寺・潮来市長勝寺銅鐘)の一つである。
源海上人は忍性と共に西大寺の興正菩薩叡尊の弟子で、同時代の記録には実道坊源海と記される。 丹治久友は鎌倉大仏の鋳造に関わった鋳物師で、この鐘は養寿院鐘(川越市)、東大寺真言院鐘、吉野金峯山蔵王堂鐘(現存せず)に続いて作られたものである。東大寺と吉野の鐘銘には、丹治久友が「鎌倉新大仏鋳物師」・「鎌倉新大仏寺大工」と記されている。
県指定文化財 工芸品 石造五輪塔 指定 昭和4年(1968)3月28日
花崗岩製で、鎌倉末期の作と推定される。 五輪塔地輪の下に反花座と基礎をもつ。 西大寺や鎌倉極楽寺では同様の石塔下に火葬の骨蔵器を埋め、寺長老の墓としており、般若寺の五輪塔についても源海上人の墓の可能性が想定される。
県指定文化財 彫刻 木造釈迦如来立像 指定 昭和50年(1975)3月25日
桧材の寄木造で、鎌倉時代の写実的な運慶様式に、宋朝様式の加わった鎌倉末期の作例である。なお、膝下や背面等の部分は桐材による後補である。
県指定文化財 考古資料 結界石 指定 昭和43年(1968)3月28日
雲母片岩製で、建長5年(1253)の建立である。薬研彫りで「大界外相(たいかいげそう)」が刻まれて いる。大界外相銘の結界石は寺院で儀式を行う聖域を限定するものである。
常陸国では他に三村山極楽寺に殺生禁断石、東城寺(土浦市東城寺)に大界外相石が建立されており、近年では阿見町塙でも大界外相石が確認された。忍性の影響により、奈良の石工らの手で作られたものと考えられる。
般若寺の結界石は二基残されており、一基は県指定文化財として、土浦市立博物館に寄託・展示されている。
市指定文化財
石造阿弥陀種子板碑(鎌倉時代)、六地蔵石石幢(室町時代)、木造毘沙門天立像(室町時代)、木造釈迦如来両脇侍像(江戸時代)、木造阿弥陀如来立像(江戸時代中期)がある。
般若寺(はんにゃじ)
現在の宍塚地区や矢作地区は、周囲の水田から少し高くなっており、関東ローム層が覆う低台地となっています。ここに立地する般若寺は、天暦元(947)年に開かれたとされる古刹で、中世には慈善事業で有名な僧侶、忍性(にんしょう)が滞在しました。鎌倉時代後期、建治元(1275)年の銘がある銅鐘は、国の重要文化財に指定されています。