週末は古墳巡り

古墳とは、およそ3世紀から7世紀に築かれた墳丘状の墓のこと。その数、およそ20万基。

金鑚神社 美里町下児玉

美里町下児玉の金鑚神社に参詣した。

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第62回伊勢神宮式年遷宮記念

金鑽神社 御由緒 美里町下児玉322

□御縁起(歷史)

下児玉は、身駒川(小山川)の左岸に位置する細長い形をした村である。明徳元年(1390)の藤原泰治寄進状に「児玉郡下児玉郷内浅羽方田壱町七段」が徳蔵寺の長老大勲に寄進された旨が載ることから、室町時代の初期には既に開発がなされていたことが推測され、また栃木県足利市鑁阿寺(ばんなじ)が所蔵する永正十年(1513)銘の法華経第一巻の奥書に「下児玉勝輪寺当住持法印祐重」とあることから、かつては隣接する小茂田(こもだ)も下児玉の村域内であったことがわかる。

このように、下児玉は古い歴史を持つ村であるため、当社の創建も室町時代以前のことと思われる。『児玉郡誌』には、延暦年間、坂上田村麻呂が東夷征伐の途次、当地に来て、身駒川に棲む大蛇を退治するに当たり、当社に祈願したところ霊験あり、速やかに退治できたという話を古老の口碑として載せているほか、元禄二年(1689)九月に村民が協力して改築した旨の棟札のことや、古い棟札が一枚あるものの年代は不明であることなどを記している。

一方、『風土記稿』下児玉村の項に「金鑽神社 村の鎮守なり、楊林寺持、下三社同じ、○雷電社○稲荷社○諏訪社」と載るように、神仏分離までは地内の楊林寺という曹洞宗の寺院が、当社の別当であった。当社は明治五年に村社となり、同十三年には社殿を改築し、更に昭和三年には昭和天皇の御大典を記念して神 楽殿を新設した。

□御祭神

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