御廟塚(みびょうづか)古墳は、「永明寺古墳保存活用計画(改訂版)」(令和2年5月、羽生市教育委員会)によれば「前方後円墳とされるが、未調査で、埋没している部分も多く、その規模は不明。景行天皇55年に東山道15か国の都督に任命されて赴任した豊城入彦(とよきいりひこ)の孫の彦狭島王(ひこさしまおう)が埋葬されたとする伝承が残る」、文献[2]によれば「前方後円墳、馬具、陶棺、天井石民家にあり」、文献[3]によれば「填長推定60m」「 <その他> 古墳の中央を北方用水が通り、南北に分断された。後円部削平、前方部のみ残存、計測不能」「 <主体部>位置:後円部、室:横穴式石室?、乱掘:1880年開墾のため発掘、石室の天井石である幅約1.2m・長2.1mの緑泥片岩を発見」「<副葬品>馬具:轡」
「永明寺古墳保存活用計画(改訂版)」(令和2年5月、羽生市教育委員会)によれば「古墳時代の利根川の流路について関義則氏は、地質や地理学の分野の研究業績及び県内の角閃石安山岩の流域分布などから、利根川や荒川が埼玉古墳群の近くを流れていたと推定をしています。また、澤口宏氏は、6世紀中頃・後半当時の利根川の流路を館林市・板倉町などを流れる現在の谷田川としています(澤口2008)。」
文献
[1] 中島利治「羽生市の古墳」『羽生市史』上巻(1971年)
[2] 埼玉県教育委員会 1994「埼玉県古墳詳細分布調査報告書」
[3] 近藤義郎 1994『前方後円墳集成 東北・関東編』山川出版社
[4] 澤口 宏2008「利根川・渡良瀬川の河道変遷」『館林の自然と生き物 館林市史』 (第1章3)特別編第3巻 館林市
37 稲荷塚古墳, 38 永明寺古墳, 40 御廟塚古墳