週末は古墳巡り

古墳とは、およそ3世紀から7世紀に築かれた墳丘状の墓のこと。その数、およそ20万基。

飯玉神社 本庄市北堀

本庄市北堀の飯玉神社を参詣した。

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第六十二回伊勢神宮式年遷宮記念

飯玉神社 御由緒

本庄市北堀一六〇二

□ 御祭神・・・倉稲魂命(うかのみたまのみこと)

□ 御縁起(歴史)

鎮座地の久下塚は、武蔵七党児玉党の久下塚氏の名字の地と考えられており、元来は独立した村であったが、中世の末期に北堀に繰り入れられるようになったようである。また、地名の「久下」は古代の役所である「郡家」が転じたもので あるとの説もあるが、これを裏付ける遺跡は現在のところ発見されていない。

当社は、久下塚の産土として祀られてきた神社で、『児玉郡誌』によれば、創立の年代は不詳であるが、児玉党の支族である公家塚庄二郎弘定が崇敬した最も古い社であるという。この公家塚庄二郎弘定とは、「児玉党系図」(諸家系図纂)によれば、一ノ谷の合戦で源氏方に属して戦功があったと伝えられる家長の弟で、その息子の親弘は公下塚本太郎と称している。境内には存しているならば樹齡七二〇年位の目通り周囲12.7メートルほどの欅の御神木があったことから、古社であることがうかがえる。

風土記稿』北堀村の項に「飯玉明神社 日光院の持」と記されているように、江戸時代には日光院が別当であった。この日光院は、一説には京都から小幡中納言某という公卿がこの地に流されて来た際に開いた寺であるといわれ、公家塚古墳と呼ばれる県内第四位の大きさの円墳の麓にあったが、神仏分離によって公家塚氏墓所となった。不動堂は、その名残である。

埴輪片? 客土?
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