週末は古墳巡り

古墳とは、およそ3世紀から7世紀に築かれた墳丘状の墓のこと。その数、およそ20万基。

橘花屯倉ミニシンポジウム 川崎市高津市民館

ゴールデンウィーク初日(4月27日)に溝の口駅前の商業ビル最上階(12階)の高津市民館大会議室で、川崎市制100周年記念事業、令和6年度橘樹官衙遺跡群保存活用事業として開催された「橘花屯倉ミニシンポジウム-橘樹官衙遺跡群成立の前段階-」に参加(聴講)した。会場の参加者が約200名、オンラインの参加者が約80名と盛況。司会は三舟隆之氏。

川崎市初の国史跡である橘樹官衙遺跡群が成立する前段階の「橘花屯倉(たちばなみやけ)」をテーマとしたミニシンポジウムで、7件の発表とパネルディスカッションの構成。4月16日の川崎市長定例記者会見で、橘樹歴史公園の5月18日オープンが発表された。川崎市は、橘樹官衙遺跡群の史跡整備として、全国で初めて飛鳥時代(7世紀後半)の倉庫1棟を復元した。

記憶に残った部分をメモすると、

  • 屯倉(みやけ)」はよくわかっていない(三舟)
  • 古墳、古代寺院、官衙が揃っているところは滅多にない(三舟)
  • ここで「屯倉」から「評(ひょう)」への変化を議論するのは全国のモデルケースになる(三舟)
  • 蟹ヶ谷古墳群の発掘調査(2018〜2023年)の最終報告書は今年度刊行予定(高久)
  • 蟹ヶ谷古墳群の1号墳は埴輪から古墳時代後期(6世紀後半)、2号墳は陸橋部から周堀に落ち込んだ状態で見つかった土師器から5世紀前半に遡る可能性が高く、多摩川左岸の野毛大塚古墳とほぼ同時代(中期古墳の初期段階)の築造と考えられる。須恵器散布地は7世紀代の横穴墓と関連する祭祀遺構で、その後、古墳文化は終焉、橘樹郡衙・影向寺が造営され律令社会へシフトした(高久)
  • 高校教科書での屯倉制の説明(大和王権の直轄地)は古い理解で、研究者の理解は「政治的軍事拠点」「貢納奉仕の拠点」が一般的(堀川)
  • 「みやけ」の表記は屯倉、官家、弥移居、弥夜気、屯家、屯宅、三宅、御宅、三家とばらつく(堀川)
  • 1970年代に入ると記紀批判を踏まえた屯倉制研究で、土地所有との関連性が否定された(堀川)
  • 屯倉の研究はヤケに難しい(三舟)
  • 日本書紀の継体21年(527)磐井の乱、安閑元年(534)武蔵国造の乱の屯倉の設置は、 朝鮮半島をめぐる対外情勢の緊張から6世紀前半との見方が一般的(鈴木)
  • 武蔵国造の乱は、武蔵地域に初めて国造制が施行された際に起きた争乱と考えられる(鈴木)
  • 埼玉古墳群の被葬者集団(笠原直使主)が武蔵国造に任命され、武蔵直(无射志直)を名乗ったと見られる(鈴木)
  • かつては小杵を南武蔵の勢力とする見方があったが、現在では北武蔵内での争いと見るのが主流(鈴木)
  •  武蔵国造の乱で設置された橘花屯倉橘樹郡、横渟(よこぬ)屯倉横見郡(埼玉県吉見町)、多氷屯倉の「多氷」は「多水」の誤写で多摩郡(東京都多摩地域)、倉樔屯倉の「倉樔」は「倉樹」の誤りで久良(くらき)郡に所在したと見られる(鈴木)
  • 橘は「支配のシンボル」「神の依り代」、生命力や不老不死の象徴(鈴木)
  • 橘花屯倉は河川交通と海上交通をつなぐ結節点、横渟屯倉は河川交通と陸上交通の分岐点、多氷屯倉多摩川中流域、 倉樔屯倉大岡川水系の河川交通を掌握する支配拠点(鈴木)
  • 古代氏族の文献史料は8世紀以降、屯倉は6世紀から7世紀前半、橘花屯倉に関連する史料は3点、天平勝宝7歳(755)から神護景雲2年(768)の史料(田中)
  • 万葉集 防人歌の橘樹郡を本貫とする上丁・物部真根(物部氏は県守郷一帯、高津区坂戸付近と推定)、正倉院宝物 調庸合成布の橘樹郡橘樹郷を本貫とする「刑部直國當」と「郡司領外従七位下刑部直名虫」、続日本紀 神護景雲2年の飛鳥部吉志五百国(久良郡で白雉をとらえ献上、吉志集団、渡来系氏族)(田中)
  • 影向寺金堂跡出土の文字瓦「无射志国荏原評」の国評標記から天武12(683)年から文武4(700)年までの間に瓦葺建物造営が始まった可能性が高い(三舟、中林)
  • 荏原評の瓦が橘花評の影向寺に使われた理由として、古代影向寺を造営した在地豪族の私的な労働力編成(知識=仏教的結縁行為)の結果と考える(三舟)、中央政府の意向(寺院造営の奨励)を前提に国司が主導して荏原評に命じ瓦が調達・供給されたものと考える(中林)
  • 『和名類聚抄』によれば橘樹郡で8世紀初頭に成立していた郷は、高田、橘樹、御宅、県守の4郷。荏原郡都筑郡、豊島郡は郷数が橘樹郡より多いが古代寺院は確認されていない。古代影向寺は郡域を超えた中核的な地位を政府-国によって与えられた寺院であった蓋然性が高い(中林)
  • 6世紀前半に矢上川流域に馬絹古墳、梶ヶ谷古墳群、野川古墳群が築造された。馬絹古墳は上円下方墳の可能性がある(新井)
  • 橘樹官衙遺跡群のⅠ・Ⅱ期が橘樹評の時期、Ⅲ〜Ⅴ期が橘樹郡の時期、Ⅱ期とⅢ期の正倉は建物主軸方位が異なるが、建物が規則的に配置されていて、Ⅰ期とⅡ期の間に画期が認められる(栗田)
  • 影向寺の瓦は生産地がわかっていない(高橋)
  • 橘花屯倉は広範囲であったのであろう(三舟)

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プログラム「橘花屯倉ミニシンポジウム -橘樹官衙遺跡群成立の前段階-」
10:00〜10:05 開会挨拶
10:05〜10:30 発表1 橘樹官衙遺跡群について・・・栗田一生(川崎市教育委員会学芸員)
10:30〜11:00 発表2 蟹ヶ谷古墳群の発掘調査成果・・高久健二(専修大学教授)
11:00〜11:30 発表3 屯倉研究の現状と課題・・・堀川徹(星槎大学准教授)
11:30〜12:00 発表4 武蔵国造の乱と橘花屯倉・・・鈴木正信(成城大学准教授)
13:00〜13:30 発表5 橘花屯倉と氏族・・・田中禎昭(専修大学教授)
13:30〜14:00 発表6 影向寺遺跡と橘樹官衙遺跡群・・・三舟隆之(東京医療保健大学教授)
14:00〜14:30 発表7 「无射志国荏原評」文字瓦と地域社会・・・中林隆之(専修大学教授)
14:45〜16:30 パネルディスカッション (司会)三舟隆之  (パネリスト)栗田一生・高久健二・堀川徹・鈴木正信・田中禎昭・中林隆之  (コメント)新井悟(川崎市教育委員会学芸員)・仁藤敦史(国立歴史 民俗博物館教授・総合研究大学院大学教授)・高橋香(公益財団法人かながわ考古学財団)
16:30 閉会挨拶

川崎市指定重要文化財 平瓦(「无射志国荏原評」刻書) 川崎市高津区 影向寺遺跡 奈良 平安時代 川崎市教育委員会所蔵
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文献

[1] 仁藤敦史 2009「古代王権と「後期ミヤケ」」国立歴史民俗博物館研究報告 第152集, 国立歴史民俗博物館

[2] 神奈川県考古学会 2015 『第22回考古学講座ー相模国を創る -』神奈川県考古学会

[3] 川崎市教育委員会 2016「国指定史跡 橘樹官衙遺跡群 橘樹郡衙跡・影向寺遺跡」川崎市遺跡リーフレット

[4] 土生田純之 2016「川崎市蟹ヶ谷古墳群の発掘調査」人文科学年報 巻 46, p. 1-20,  専修大学人文科学研究所 - 専修大学学術機関リポジトリ

[5] 高久健二 2017「川崎市蟹ヶ谷古墳群の発掘調査と神庭遺跡」人文科学年報 巻 47, p. 1-20, 発行日 2017-03-31,  専修大学人文科学研究所 - 専修大学学術機関リポジトリ

[6] 栗田一生 2017「武蔵国橘樹郡家と影向寺遺跡」『古代東国の地方官衙と寺院山川出版社

[7] 新井悟 2017「川崎市 蟹ヶ谷古墳群 - 川崎市域における現存する唯一の前方後円墳の“発見” -」『第41回神奈川県遺跡調査・研究発表会発表要旨』神奈川県考古学会

[8] 栗田一生 2017「川崎市 国史跡橘樹官衙遺跡群 橘樹郡衙跡[千年伊勢山台遺跡]第21次調査」『第41回神奈川県遺跡調査・研究発表会発表要旨』神奈川県考古学会

[9] 川崎市教育委員会 2020 『国史跡指定5周年記念シンポジウム「橘樹郡誕生!」 〜橘樹郡家・古代影向寺どうしてここに〜』発表要旨

[10] 田中禎昭 2020「橘花ミヤケにおける氏族の動向 : 物部・刑部・飛鳥部吉志」人文科学年報 巻 50, p. 47-92, 発行日 2020-03-31,  専修大学人文科学研究所 - 専修大学学術機関リポジトリ

[11] 中林隆之 2021「古代橘樹郡影向寺遺跡とその史的前提 : 屯倉・県と名代」人文科学年報 巻 51, p. 45-71,  専修大学人文科学研究所 - 専修大学学術機関リポジト

[12] 高橋亘 2021「2020年度神奈川県川崎市橘樹郡家跡の三次元測量・GPR調査」『溯航早稲田大学大学院文学研究科考古談話会

[13] 川崎市教育委員会 2023「古代橘樹を知り、活用する‼︎ II」川崎市遺跡リーフレット

 

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