特別展「鹿嶋の古墳を歩く」を鑑賞した日は、早起きして、ミニ博物館ココシカの開館前に、中宮野古墳群を散策。そのあと鹿島神宮を参拝。
大鳥居
鹿島神宮御由緒
御祭神 武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)
創建 皇紀元年(紀元前六六〇年)
例祭日 九月一日
境内地 二十一万坪
御由緒
神代の昔、天照大御神(あまてらすおおか)の命を受けた武甕槌大神は香取の経津主大神(ふつぬしのおおかみ)と共に出雲国へ向かわれ、国譲りを成就し皇孫の国たるべき日本の建国に挺身された。
とりわけ東国における神功は大きく、関東開拓の礎は遠く大神にさかのぼる。
初代・神武天皇(じんむてんのう)はその御東征なかばにおいて思わぬ窮地に陥られたが、大神の「師霊剣(ふつのみたまのつるぎ)」の神威により救われた。 皇紀元年、紀元前六六〇年の頃と言われる。
以来、皇室を始め藤原氏等の崇敬も篤く、中世・近世には源頼朝、徳川将軍家等の祈願や寄進が寄せられた。
そして江戸時代に利根川から江戸を結ぶ水運が開かれると東国三社参り(鹿島・香取・息栖)が流行、庶民にも鹿島信仰は広まり、現在に至るまで東国最大最古の神社として朝野の崇敬を集めている。
楼門、寛永11年(1634)に水戸初代藩主徳川頼房公の奉納、重要文化財
本殿・拝殿
御祭神 武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)
創祀 神武天皇御即位の年に神恩感謝の意をもって神武天皇が使を遣わして勅祭されたと傳える
御神徳 神代の昔 天照大御神の命により国家統一の大業を果され 建国功労の神と稱え奉る また師霊剣(ふつのみたまのつるぎ)の偉徳により武道の祖神 決断力の神と仰がれ関東の開拓により農漁業 商工殖産の守護神として仰がれる外常陸帯(ひたちおび)の古例により縁結び安産の神様として著名である 更に鹿島立ちの言葉が示すように交通安全 旅行安泰の御神徳が古代から受け継かれている
仮殿、元和4年(1618)建立、重要文化財
摂社 高房社、祭神 建葉槌神
摂社 高房社
祭神 建葉槌神
鹿島の大神に従い天香背男を討つ
本宮参拝の前に詣でるのが慣例である
境内案内
奥宮(おくのみや)
ここより300メートル
本宮御祭神の荒魂(あらみたま)を奉祀する。 社殿は慶長10年(西曆1605)に徳川家康公奉納の旧本殿を元和5年に引遷したもので明治34年国宝指定 現重要文化財。
要石(かなめいし)
ここより450メートル
奥宮の後方150メートルのところにある石で 別名を山の宮、御座石(みましいし)といい幾多の神秘的な伝説がある。特に地震を起す大鯰を押えているという説話により当地方は大地震にも被害が少ないという
御手洗(みたらし)
ここより500メートル
奥宮の前の坂を下ったところにある潔斎の 池で古くはこの池のあたりが参道の起点で あった。池の水温は一定して夏は冷たく冬は温かく感じられる。
鹿園(ろくえん)
ここよリ120メートル
御祭神の神使として親しまれている神鹿が 30数頭柵の中に飼育されている。
樹叢(じゅそう)
鹿島神宮境内約70ヘクタール(70町歩)に繁茂する植物は一千種の多種にわたり 特に南限北限の植物が同生して植物学上貴重なため県の天然記念物の指定を受けている。
鹿島七不思議
要石 その根底ふかくて図り知れずという 御手洗 池の深さ大人 小人によらず乳を過ぎずという
末無川 川の水 流れ行くほど追々かれて 行末知らず
藤の花 御山の藤の花の多少によりその年 の豊凶を予知すること
海の音 浪の響が上(北)の方に聞えれば日和 下(南)に響けは雨降るという
根上り松 すべて御山の内の松幾度伐れとも 伐り跡に芽出て枯れることなし
松の箸 鹿島の松で作る箸は松脂の出たことなしという
奥参道
石燈籠、元和5年(1619)に社殿造営に関係した安藤対馬守が奉納、茨城県指定文化財
さざれ石
神鹿(しんろく)
神鹿(しんろく)について
古くから鹿は鹿島神宮の御祭神・武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)のお使いであると言われています。これは国譲り神話で、天照大御神(あまてらすおおみかみ)のご命令を武甕槌大神に伝えに来られたのが、鹿の神霊とされている天迦久神(あめのかくのかみ)であったことによります。
神護景雲二年(西暦768年)、藤原氏が氏神である鹿島の大神の御分霊を奈良にお迎えして春日大社を創建するにあたり、御分霊を神鹿の背に乗せ奈良へと進みました。
その足跡は、東京都江戸川区の鹿骨(ししぼね)鹿島神社を始めとして、東海道を三重県の名張(なばり)まで言い伝えが残されており、この伝承から奈良の神鹿の起源は鹿島に求めることができます。
鹿島の神鹿は長い間大切に保護されており、 一時絶えた時期もありましたが、昭和32年、奈良と神田神社から神鹿を迎え現在の鹿園が開園されました。
膝折るやかしこまり鳴く鹿の声 曾良(そら)
奥宮
奥宮
祭神 武甕槌大神荒魂
社殿 慶長十年(1605)に徳川家康公により本宮の社殿として奉納されたが元和五年(1619)に二代将軍秀忠公によって現在の本宮社殿が奉建されるに当り現在地に引移して奥宮社殿となった
要石
要石
神世の昔 香島の大神が座とされた万葉集にいう石の御座とも或は古代における大神奉斎の座位として磐座(いわくら)とも伝えられる霊石である。
この石 地を掘るに従って大きさを加え、
その極まる所しらずという
地中にいて地震を起こす大鯰に対し、香取神宮のフツヌシと鹿島神宮のタケミカヅチはそれぞれ石棒を地中深く刺し、鯰の尻尾と頭を固定したという。それが地上に出ているのがこの要石。これを見にきた。思っていたより小さかった。 pic.twitter.com/LzqXHQiAnR
— HONDA,So_新刊「東京暗渠学改訂版」11月8日刊行 (@hondaso) 2020年3月25日
芭蕉句碑
芭蕉句碑
枯枝に
鴉のとまりけり
穐(あき)の暮
穐は秋の旧字でありこの句は この地で詠まれた句ではないが 状況が似ているので建てられたものと推察される
御手洗(みたらし)
御手洗
古来、神職並びに参拝者の潔斎(けつさい)の池である池の水は清く美しく澄み四時滾々と流れ出てどのような旱魃にも絶えることのない霊泉で神代の昔御祭神が天曲弓で掘られたとき宮造りの折一夜にして湧水したと伝えられ大人小人によらず水位が乳を越えないという伝説により七不思議の一つに数えられている。
大昔は当神宮の参拝がこの御手洗を起点としてこの池で身を清めてから参拝するので御手洗(みてあらい)の名が今に残るのである。
大鳥居笠木御用材樹齢約600年
椎(しい)の木、樹齢800年位
鹿嶋のまち(宮中)巡りのススメ
鹿島神宮のまちへようこそ! ここは、鹿島神宮の古代、鹿島城の中世、門前町の近世、それぞ れが現代に共存する歴史ロマンをかきたてる古(いにしえ)のまちです。
特に「宮中」と呼ばれる大町、仲町、角内、桜町、新町の五ヶ町は、鹿島神宮、鹿島城とともに、その役割を担いながら発展してきた長い歴史を持つ町です。通りの一つ一つに名が付けられ、まちそれぞれの歩んできた特色を伝えています。歩いてみると、色々な発見ができるはずです。
この宮中五ヶ町から、少し足を伸ばすと、歴史ロマンはさらに広がります。鹿島神宮はもとより、宮中五ヶ町を起点に放射状に分布する歴史スポットが様々な時代に誘ってくれます。周辺を散歩しながら歴史の物語を感じ取り、鹿島神宮へ参拝してみませんか。
鹿島神宮への参拝は、古代は御手洗池まで船で訪れていました。中世以降は船で大船津まで訪れ、一の鳥居から徒歩で鹿島神宮を目指しました。近世は大町通りの門前が整備され、多くの人たちが、門前の大町通りから鹿島神宮へ参拝しました。
駅前からも見える緑豊かな鹿島神宮の台地、大町通りの参道に至る緩やかな坂道は古代からの参拝の道行きを偲ばせます。
どうぞごゆっくり鹿島神宮と歴史のまちのご散策をお楽しみください。