加曽利貝塚の発掘調査現地説明会の前に廿五里(つうへいじ)貝塚に寄り道。廿五里(二十五里、つうへいじ)の地名の由来は、
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千葉常胤が弁財天をこの地に祭ってから、重臣の通平寺氏が敵の侵入に備えて、とりでを構築し、ここを住まいにしていたと伝えられる。
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この地が鎌倉から二十五里というところから〝通平寺〟と〝二十五里〟が混然一体となり〝二十五里〟すなわち〝つうへいじ〟と呼びならわれたといわれる。
千葉県主要遺跡百選の内の一
廿五里貝塚(つうへいじかいずか)
廿五里南貝塚(つうへいじみなみかいずか)
所在地:千葉市源町839他
廿五里南貝塚は、葭川谷(よしかわだに)から分岐した廿五里支谷の最奥部、標高約28〜29mの台地上平担部に所在します。
貝層は、直径約100mの馬蹄形で、ハマグリ・キサゴなどを主体に縄文時代中期から後期にわたり形成されています。
昭和47年(1972)、小発掘調査が行われ、縄文時代中期の竪穴住居跡とその中に捨てられた貝の堆積中から土器を被った屈葬人骨が検出さ れています。竪穴住居跡は、5.6m×4.7mの隅丸胴張長方形で、4本の柱穴の内側が一段低く、炉が検出されていません。屈葬人骨は、深鉢形土器を頭から被った甕被り葬で、成人女性でした。遺物は、土器・打製石斧・磨製石斧・軽石・石棒片・石鏃やアカニシの貝輪な どがあります。その他、貝層中よりイノシシ・タヌキ・シカなどの獣の骨とクロダイ・スズキ・エイ・サメなどの魚の骨が検出されてい ます。
その他、この廿五里南貝塚の所在する台地は、中世に館跡として造成されています。また、ここから北へ約100mの所に、縄文時代中期 から後期にわたり馬蹄形に形成された廿五里北貝塚が所在します。