週末は古墳巡り

古墳とは、およそ3世紀から7世紀に築かれた墳丘状の墓のこと。その数、およそ20万基。

多胡郡正倉跡 高崎市吉井町池

多胡碑周辺遺跡の現地説明会の後で、段丘上の多胡郡正倉跡を見学。高崎市では平成23年度(2011年)より、特別史跡多胡碑周辺において、多胡碑に記された古代多胡郡の役所跡(多胡郡衙)に関連する遺跡を確認するための調査を実施。岡地区の調査で、2014年3月に瓦や礎石、同年11月に炭化した米を発見。平成27年度第5次調査(2015年5月〜)で大型礎石建物の発掘を行い、翌年1月に大型倉庫の遺構を発見したと発表。この大型礎石建物は多胡碑と同時代(8世紀前半)の巨大な遺構で、南北7.2m、東西16.8m、床面積約120平方mの総瓦葺きで、多胡郡正倉の中でも最も格の高い法倉(ほうそう)と見られる。また、溝によって周囲を区画した正倉院であることが確定、岡地区の遺跡を「多胡郡正倉跡」と命名。2020年3月に国の史跡に指定された。

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多胡郡正倉跡

多胡郡正倉跡は、今から1300年ほど前の奈良時代から平安時代にかけて存在した古代多胡郡の役所跡です。奈良時代は、律令と呼ばれる法律に基づいた中央集権的な国家の体制が整った時代です。

この頃、地方行政は国・郡・里の三段階の単位に編成されました。711年(和銅4年)、この地に多胡郡が新たに設置され、郡の役所である郡衙(郡家)も整備されました。正倉とは、この郡衙の施設の一つで、高床の倉庫を建て並べ、税として集めた米などの穀物を保管した公の倉庫群のことです。2011年から多胡碑周辺で実施している発掘調査で、特に注目されたのは、東西16.8m、南北7.2mの大きな建物跡です(目前にあります)。建物基礎となる大きな礎石が整然と並び、屋根は希少な瓦葺だったことが調査で確認されました。この ことから、この建物跡は高台にそびえたつひときわ格式の高い倉庫(法倉)であったと考えられます。付近一帯では他にも礎石建ちの正倉が発見されており、複数が建ち並んでいたと想定されます。これら倉庫群は南北の方位にあわせて掘られた区画溝に囲まれ、約210m四方の敷地を有していたことも分かりました。正倉跡の北辺中央から真北に約350mの距離には、多胡郡の建都記念碑である特別史跡多胡碑が存在しています。このことは多胡碑と正倉が計画的に配置された可能性を強く示唆しています。古代多胡郡は、国家の形成期に国が主導して渡来人を登用し設置した全国でも稀な郡です。その役所跡が見つかったことは、日本古代史を理解する上で極めて重要あり、建郡記念碑である多胡碑の歴史的価値をいっそう高めるものとして注目されます。

所在地 高崎市吉井町池字岡508 ほか

設置日 平成29年3月31日 高崎市教育委員会

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