週末は古墳巡り

古墳とは、およそ3世紀から7世紀に築かれた墳丘状の墓のこと。その数、およそ20万基。

古代山部郷を探る 多胡碑記念館

多胡碑記念館で10月21日から始まった企画展「古代山部郷を探る」を鑑賞した。本展では、山部郷を含む古代片岡郡の遺跡について、奈良時代を中心に概観する。古代の山部郷は、おおむね現在の高崎市南八幡地区の山名町、木部町、阿久津町、根小屋町と推定される。古墳時代後期には屯倉が置かれ、ヤマト政権の直轄地となり、飛鳥時代には律令制下の片岡郡に属し、奈良時代の711年3月、新設された多胡郡の一部となった。多胡郡を構成する六つの郷の、もともと所属していた郡における位置づけ、また、そこから割かれた理由を考え、上野三碑を生んだ古代多胡郡の歴史的背景を探る。

山部郷には、山名伊勢塚古墳と山名古墳群、山名原口Ⅱー1号古墳、鶯塚古墳、上野三碑の山上碑と金沢碑があるが、これら全て未訪問なので、訪問したい。

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特別史跡 多胡碑

多胡碑は栃木県にある那須国造碑、宮城県にある多賀城碑とともに日本三碑と呼ばれている古代の石碑である。また高崎市の山ノ上碑、金井沢碑とともに上野三碑とも呼ばれる。

碑身の高さは120cmで、吉井町南部に産出する軟質の牛伏砂岩(通称多胡石)で造られている。

その書体は楷書体で中国の六朝風を遺すといわれており、古くより多くの書家に愛好され、六行八十字の文字彫りも味わいあるものとして評価されている。

土地の人は多胡碑を「ひつじさま」と呼び信仰の対象としてまつり、今日まで守ってきた。 また、文面に見える『羊』にちなんだ「羊太夫」の伝説は、古くから語り継がれて親しまれている。

弁官符(べんかんふ)す。上野国の片岡郡、緑野郡、甘良郡并せて三郡の内、三百戸を郡と成し、羊に給いて多胡郡と成せ。和銅四年三月九日甲寅(きのえとら)に宣(の)る。
左中弁・正五位下多治比真人(たじひのまひと)。
太政官・二品穂積(にほんほづみ)親王、左太臣・正二位石上尊(いそのかみのみこと)、右太臣・正二位藤原尊(ふじわらのみこと)。

(群馬県史通史編2による)

右の碑文は和銅四(711)年の多胡郡の設置について述べたもので、ほぼ同様の内容が正史の『続日本紀和銅四年三月六日の条にも見えている。

続日本紀』の記事によって碑文を補うと、分割された各郡の里(郷)名がそれぞれ片岡郡山部(山名)・緑野郡武美・甘良(甘楽)郡織裳(折茂)・韓級(辛科)・矢田・大家であることがわかる。碑文は字数などの制約があり『給羊』のように解釈のむずかしい語句もある。

多胡碑は当時のこの地域のありさまを今日に伝える。 全国的にも稀な石碑である。

昭和二十九年三月二十日 指定 平成十二年三月九日設置

文部省 群馬県教育委員会 高崎市教育委員会

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10月29日に三碑を特別公開
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