週末は古墳巡り

古墳とは、およそ3世紀から7世紀に築かれた墳丘状の墓のこと。その数、およそ20万基。

西村勝三の像 佐倉市民体育館

歴博加耶展を堪能した後で、佐倉市市民体育館に寄り道した。体育館では武道系の大会が開催されていたようだ。以前、品川白煉瓦の耐火煉瓦について調べていたとき、品川白煉瓦を創設した西村勝三の故郷の佐倉市で像が建てられていることを知りメモっていた。ここに来るまで製靴のことは知らなかった。明治政府が推進した西欧化政策を企業家として支えた人物だったのであろう。ちなみに西村勝三の墓は品川東海寺大山墓地にある。また、1902年に設立された日本製靴株式会社が、現在の株式会社リーガルコーポレーションと知る。「リーガル」は私が若い頃に愛用していた紳士靴で、不思議な縁(巡りあわせ)を感じた。

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西村勝三翁の業績

この地を下った所には、曽て佐倉藩の士魂を磨いた「成徳書院」の武道場があった。その武道場を、断乎改造して、製靴の業を教えたのが、西村 茂樹(1828-1902)・勝三(1836-1907)の兄弟である。大塚岩次郎(大塚製靴創始者)もここでその業を習った一人であった。時に明治四年七月であり、この月には「廃藩置県令」が出されている。佐倉藩の士族授産行政は、この様にまさに間髪を入れぬ素早さと、先見に富んだ大胆なものであった。茂樹は当時佐倉藩大参事であり、勝三はその前年三月十五日日本初の製靴工場を築地入船町五丁目一番地に建てていた。

父西村芳郁は、成徳書院の前身「温故堂」の頭取となり、又支藩佐野藩への附家老も勤めた有能の士で、母楽子は佐倉藩士荒井宗輝の長女であった。

勝三は初め佐野藩の緑を喰んだが、安政三年(一八五六)脱藩し、その後武士も捨てて、佐野の豪商正田利右衛門と横浜に出て貿易に従事した。 やがて明治二年(一八六九)大村益次郎から製靴をすすめられ、弟の綾部平輔と製革製靴事業創始を決意して断髪した。断髪令に先立つこと二年であり、 この決意に感動して、高見順は「日本の靴」を著したほどである。

勝三翁の創業は「伊勢勝製靴場」といったが、その後「桜組」と改称、更に大同合併して皮革は「日本皮革株式会社」、靴は「日本製靴株式会社」 として今日の大をなす源となった。

翁は又正田利右衛門から製鉛法の研究を託され、それが耐火煉瓦の研究となり、明治八年「伊勢勝白煉瓦製造所」に結実し、之が後「品川白煉瓦株式会社」となり、今日の盛業を見るに至った。本碑及び像周辺の煉瓦は、特に寄贈された同社製の耐火煉瓦である。

翁は又、ガス・ガラス・靴下・洋服等々の事業も手がけ、夫々の業界の先達と仰がれている。

この様に勝三翁の生涯は、日本工業の創業の苦闘の歴史そのものであった。

翁の無二の理解者であり、且つ最大の協力者であった渋沢栄一は、「西村翁はいつも国益を優先し、自己の利害を顧みず、百難を排して日本の工業を創始した。」と、その士魂商才の面目を絶賛している。

「明治の工業の父」西村勝三。日本で初めて西洋靴を作った男は東京駅の赤煉瓦も作っ… | Shoes box

公文書にみる発明のチカラ - 16. 国産洋靴の製造(西村勝三) : 国立公文書館

西村勝三 - 「日本で初めて労働組合をつくった男 評伝・城常太郎」

会社概要_沿革 | リーガルコーポレーション

品川白煉瓦の耐火煉瓦。SSの刻印。
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品川白煉瓦の耐火煉瓦については本ブログでは何度も取り上げている。

佐倉藩 藩校 成徳書院跡の碑
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藩校 成德書院

佐倉藩の藩校は、寛政4(1792)年に藩主堀田正順公が藩士の師弟教育のため麻賀多神社前に設立した「学問所」に始まり、文化2(1805)年には「温故堂」と称しました。

天保7(136)年に藩主堀田正陸公が佐倉城大手門前のこの地に移転拡充し「成徳書院」と改称して下図のとおり、先聖殿、温故堂、礼節・音楽書学などを教授する六芸所、文庫などを設けました。(「内附属」という)

また「外附属」として近隣に、幼稚教育を行う西塾と東塾、演武場、医学場を、さらに分校では南庠(千葉市中央区亥鼻)と北庠(山形市柏倉)などの組織を順次整備しましたが、明治4(1871)年の廃藩置県をより藩校は廃止となりました。その後、私立の中学校になるなど幾多の変遷を経て明治32(1899)年に千葉県に移管されましたが、県立中学校にふさわしい教育環境整備のため明治42(1910)年、堀田正倫公が寄贈した鍋山の現校地に新築移転しました。

平成24(2012)年12月22日 千葉県立佐倉高等学校同窓会 鹿山会

鹿山会

浜野昇と済生病院
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大手門跡(追手門)
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