週末は古墳巡り

古墳とは、およそ3世紀から7世紀に築かれた墳丘状の墓のこと。その数、およそ20万基。

鍰煉瓦 北区堀船

北区堀船の大型マンション建設地の脇で見つけた鍰煉瓦。

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路地でも鍰煉瓦を発見。
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白山堀公園の『堀船』の名前の由来の説明版
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『堀船』の名の由来
堀船の名は、堀之内村と船方村とが合併してできたものである。 江戸時代から明治22年まで、このあたりは梶原堀之内村であった。 しかし、昭和7年に東隣の船方村と合併して堀船という地名になった。
足利時代末に、大田道灌の孫であり、大田資正(三楽斎道誉)の子である梶原政景が今のポンプ場(堀船三丁目の下水道局王子ボン プ場)あたりに屋敷を構えたと言われている。その屋敷の内=堀の内ということで、梶原堀之内村と呼ばれていた。梶原の姓は、永禄元年(1558)、古河公方義氏の元服の時に太刀役を務め、梶原の姓を与えられたという説(『異本小田原記』)と、同4年、長尾景虎が 上杉姓と関東管領を譲られた拝賀の時に与えられたとする説(『北条記』)がある。(永禄5年の政景の初見史料では、すでに梶原を名乗っている。)
梶原政景は、下総国土豪で柿岡城主であり、「弓矢打物達者にて、鬼にも神にも逢ふべき器量」で、和歌、手跡・早歌・乱舞・馬上・鞠など、諸芸にも秀でていたという(『異本小田原記』)。福性寺の本堂前に「地名発祥梶原塚」という標石があり、梶原塚と呼ばれている。
船方村は、豊島の7つの村の1つで、江戸時代に船の組み仲間として有名な船頭の一族がこのあたりに住んでいたと言われている。
町の名前が堀船になっても、梶原という呼び方はこの地に住む人の愛着や郷愁からか、梶原〇〇〇と呼ばれるところも多いようである。
【参考】 東京都北区立船小学校 創立70周年記念 「わたしたちの堀船」
平成3年2月7日

梶原政景が屋敷を構えたとされるポンプ場(王子ポンプ場)については

鍰煉瓦についてはこちらのブログ記事を参照してね。

刻印がある煉瓦も
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