週末は古墳巡り

古墳とは、およそ3世紀から7世紀に築かれた墳丘状の墓のこと。その数、およそ20万基

講演会「出雲の青銅器祭祀から大和の前方後円墳祭祀へ」(11/23) よみうり大手町ホール

昨年11月23日に、日本書紀成立1300年 特別展「出雲と大和」関連講座、第9回 奈良県橿原考古学研究所東京公開講演会「出雲の青銅器祭祀から大和の前方後円墳祭祀へ」を聴講した。講演者は東京国立博物館副館長の井上洋一氏、出雲弥生の森博物館名誉館長の渡辺貞幸氏、奈良県橿原考古学研究所研究顧問の白石太一郎氏。

井上氏は、弥生時代の武器形青銅器(銅剣、銅矛、銅戈)と銅鐸の変遷と、出雲を代表する荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡について述べる。また、鉛同位体比の研究では、原材料の鉛同位体比が時期ごとに共通することから、原材料の供給をコントロールする集団の存在を示唆し、中国王権と結びついた北部九州地域における王権の存在、この王権が近畿地方を支配する王権とも結びつき、青銅器の生産・流通システムを近畿地方を中心として構築し、出雲もこのシステムに組み込まれていたとする。また、銅鐸二時期埋納説に対して疑念を示し、音を発する銅鐸の特質を「戦いのカネ」と捉え、弥生中期末から後期初頭に銅鐸が埋納された山陰地方では他の地域に先駆けて政治的なまとまりができあがったと述べる。

渡辺氏は、弥生時代後期の山陰地方を特徴づける四隅突出型墳丘墓について解説する。同氏は初期の四隅突出型墳丘墓に認められる「踏石状石列」に着目する。墳丘外縁を画する縁石列が踏石状石列の下端で途切れている例を「墳丘の開口部、埋葬施設のある墳丘頂上への墓道」と推定する。四隅突出型墳丘墓は弥生時代中期後葉に中国地方山間部で出現、速やかに山陰海岸部にも拡散、後期後葉には北陸の一部地域に伝播。北陸のものは配石構造を持たない。

白石氏は、大和の初期の大型前方後円墳箸墓古墳について概説し、大和における大型前方後円墳成立の意味として、この時期の大型前方後円墳は「ヤマト政権」の盟主、初期の倭国王の営んだものにほかならず、吉備系の特殊壼形・器台形埴輪は大和の王の送葬のために吉備大首長が献じたもので、縦穴式石室の構築は四国東部の讃岐や阿波の首長の協力によってなされ、古墳は各地の政治勢力の首長たちがそれぞれの伝統的な墓づくりの技術を持ち寄って共に造るものであったとして、亡き首長のために共通の様式の墓としての古墳を造営することが前方後円墳祭祀、古墳祭祀にほかならなかったと述べる。また、「初期ヤマト政権」の原型は「邪馬台国連合」にほかならない、鉄資源を朝鮮半島東南部の鉄に依存いた弥生時代後期の鉄器の時代に畿内地域の勢力が玄界灘沿岸を制圧して鉄資源の安定的確保を狙った「畿内・瀬戸内連合」が「邪馬台国連合」であり、邪馬台国は大和であり、独自のルートを持つ出雲や丹後は連合に加わっていなかった、邪馬台国連合段階から初期ヤマト政権の成立に至るには邪馬台国連合と狗奴国連合の争いが不可避であった考え、前方後方形墳丘墓の造営が広く認めれれる濃尾から関東が狗奴国と考え、西の邪馬台国連合に東の狗奴国連合が加わって成立したのが「初期ヤマト政権」にほかならない、箸墓の被葬者は卑弥呼で後継者の台与が中心になって「倭国」の初代の王の墓として造営したと考えるほかない述べる。

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白石氏の講演は、高崎市観音塚考古資料館と朝霞市博物館の企画展の群馬県や埼玉県の古墳出現期に前方後円墳がなく前方後方形墳丘墓や前方後方墳という内容と符合する。沼津市の高尾山古墳が狗奴国の盟主の墓かもしれない。

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