週末は古墳巡り

古墳とは、およそ3世紀から7世紀に築かれた墳丘状の墓のこと。その数、およそ20万基。

東谷古墳 本庄市栗崎

次に訪れたのが東谷(ひがしやつ)古墳。文献[2]では「方墳、一辺27m、横穴式石室」、ミニ企画「ミュージアムの周辺の古墳」のパネルでは「直径27m、高さ3mの二段築成の円墳、横穴式石室、築造時期は7世紀前半」

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埼玉県選定重要遺跡 東谷古墳

東谷古墳(ひがしやつこふん)は大久保山丘陵の南東へのびる尾根上に所在する円墳です。墳丘は直径約27メートル、高さ約3メートルの規模があり、墳丘上には、かつて琴平社が祀られていました。墳丘の中心部には、横穴式石室が築かれ、現在でも、側壁・奥壁と天井の一部が残っています。石室は、側壁が外側へ弧を描くように膨らむ 「胴張型石室(どうばりがたせきしつ)」と呼ばれる型式で、側壁に榛名山起源の角閃石安山岩(かくせんせきあんざんがん)を使用し、奥壁には片岩(へんがん)の板石を四段に積み上げ、さらに天井にも片岩の板石を架しています。

東谷古墳の石室は、明治29年(1896)9月に、琴平社の氏子らによって発掘され、その際に本庄警察署へ提出された「埋蔵物品及石室実況御届」(明治29年9月17日付)によって、当時の様子を知ることができます。それによれば、石室は間口メートル80センチ、奥行き3メートル60センチほどの規模があり、遺物は鉄製大刀(たち)1、鍔(つば)1、金環(きんかん)2、水晶製切子玉(きりこだま)1、管玉(くだだま)1、 土師器(はじき)片9、須恵器(すえき)片3、人骨片1が出土しています。

古墳の築造時期は、石室構造の特徴や、埴輪をもたないと考えられることから、七世紀代と推定されます。大久保山丘陵には、古墳時代前期の前方後円墳である前山一号墳、古墳時代中期初頭の方墳、前山二号墳などがあり、古墳時代を通じて有力者層の墳墓が造営されていることから、東谷古墳も前代の有力者の勢威を受け継いだ人物の墓であったと推定されます。墳丘は現在でも良好な状態で保存されており、学術的にも貴重であることから、前山一号墳などとともに、大久保山古墳群として、埼玉県の重要遺跡に選定されています。

平成二十四年三月 本庄市教育委員会

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本庄市の古墳/本庄市

文献

[1] 埼玉県 1982「新編埼玉県史 資料編 2 原始・古代 弥生・古墳」

[2] 埼玉県教育委員会 1994「埼玉県古墳詳細分布調査報告書」

[3] 塩野博 2004「埼玉の古墳 児玉」さきたま出版会

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