週末は古墳巡り

古墳とは、およそ3世紀から7世紀に築かれた墳丘状の墓のこと。その数、およそ20万基。

坪井正五郎博士 日本初の人類学者(2)

コロボックル論争について調べた。コロボックル(コロポックル)はアイヌの伝承に登場する小人。アイヌ語で「蕗の葉の下の人」という意味。

1884(明治17)年、東京大学理学部植物学教室で開催された「じんるいがくのとも」第二寄合にて渡瀬庄三郎は「さっぽろ きんばう ぴっと(Pit)の こと」と題する報告を行った。この報告は『人類学会報告』創刊号(1886年)に「札幌近傍ピット其他古跡コノト」として再録された。この報告で、「札幌近傍に縦穴が五、六十あり、ここに住んでいたのはアイヌの前の土人すなはち小人、またはコロボックル」とした。これに対し、白井光太郎が、匿名で反論文を『東京人類学会報告』(第十一号, 1987年1月)に発表。「コロボックルはアイヌの伝承に過ぎず実存しない、従って札幌近傍古跡から出土した遺物はアイヌのもの」とする。これに対して、坪井正五郎が『東京人類学会報告』(第十二号, 1887年2月)で異を唱えた。「コロボックルが実存しなかったという証拠はない、従って札幌近傍の遺跡はコロボックルでないとは言い切れない」とする。すると白井は別の匿名で反論文を『人類学会報告』(第十三号, 1887年3月)に発表。これに対して坪井は『東京人類学会報告』(第十四号, 1987年4月)に反論文を発表して応戦。

1888年夏に坪井は小金井良精と北海道の各地を巡った。その後、小金井は『東京人類学会報告』(第四十四・四十五号, 1889年10,11月)にアイヌ説を主張し坪井の説を否定する論文を発表。坪井は1889年5月から留学を目的にパリに赴いていたが、『東京人類学会報告』(第四十九号, 1890年4月)に反論文を発表。コロボックル論争は再燃、専門誌上で論争が行われた。ちなみに小金井の妻・喜美子は森鴎外の妹で、森鴎外は『医事新論』(第八号, 1890年7月)で坪井説を否定して小金井説を援護している。

1895年4月から翌年1月まで坪井が『風俗画報』に全10回、断続的に連載した「コロボックル風俗考」が、論争の存在を一般の人々に知らしめた。坪井はこの連載の中で、コロボックルという名称は先住民族の仮の名前として使用しているだけで、アイヌの伝承のコロボックルの存在を信じていたわけではないと述べている。しかし、連載に添えられた挿絵が、コロボックルの実存を読者に訴えた感がある。

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1898年12月、坪井は郡司成忠に会い、北千島の占守(シュムシュ)島の石器時代遺跡の話を聞いた。郡司氏は北千島の占守島の報効義会会長で元日本海軍大尉。坪井は興味を持ったが、多忙で北千島に赴くことは出来ず、弟子の鳥居龍蔵が赴いた。鳥居が『地学雑誌』(1901年7,8月)に発表した論文は、坪井の意に反し、「北千島にはコロボックルが存在した痕跡はなく、遺跡は北千島アイヌによるもの」と結論付けた。坪井は1907年7月から10月に樺太に赴いたが有力な手がかりは得られず、コロボックル説の発言はほとんど見られなり、1913年の坪井の死によってコロボックル論はついに顧みられなくなった。

今日のDNA研究により明らかになりつつある知見からは、坪井のコロボックル説も小金井らのアイヌ説も誤りの多いものであったことが判明していると文献[1]に書いてある。

当時の人類学会が日本人種論を避けて、先住民族に関する議論に終始した点について「コップの中の嵐」と評する指摘もある。

文献[1] 川村伸秀 2013『坪井正五郎 -日本で最初の人類学者』

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